書:斉嘉 光政





2003年4月18日。
当時、私は有る重大な経験に因り、
唯、悲嘆に明け暮れるだけの日々を過ごしていた。
そんな気の抜けた私は何故か、不思議とヤクザ社会の流れが気に成っていた。
義父は初代稲川会某名門一門傘下で若衆修行した過去が有る。
その義父もこの数年前に亡くなっていた。
義父が存命の頃は群馬県内に本部を構える三代目稲川会某一門の
代紋持ちヤクザ、そして代紋を外した男達が頻繁に遊びに来ていた。
そんな環境で私も育ったのだ。
今に想えばヤクザ社会の流れに触れる事で、
亡き義父の残像をヤクザ社会に見出していたのかも知れない。
同時にその残像に私の有様を問う様な感覚が常に有ったのも憶えている。
だが、街で接するヤクザと云うのは余り好きでは無かった。
あの偉そうに振る舞う穢れた姿に、吐き気を催す様な嫌悪感を抱いていたからだ。
そんな最中の有る晩、私は代紋同士の抗争を扱う報道番組に触れていた。
報道では群馬県大泉町に本部を構える住吉会傘下事務所に
10tダンプカーが突撃したとの事だった。
更に前日に一家名乗りした傘下組長もその場にて射殺されていた。
だが、私はヤクザ社会を扱う書籍から、
直ぐに相手の代紋が五代目山口組で有る事を確信したのだ。
相手代紋の傘下事務所にダンプを突撃させる手口は、
日本最大のヤクザ組織、歴代山口組の御家芸と雑誌で謳われていたからだ。
後日、この抗争の記事を週刊誌で見たが、既に抗争は激化の渦中に有った。
一方の代紋は五代目山口組初代弘道会(以下、初代弘道会)で有り、
もう一方は栃木県栃木市に本部を構える、
住吉会六代目住吉一家二代目親和会(当時)だった。
又、80年代後半から首都圏に進出した五代目山口組勢力と、
関東の代紋に依る本抗争は史上初の出来事だった。
そして今は私も看板外し、代紋外しとして、
某看板直系の有力一門傘下で仕事を打つに至っている。
複数の知人がこの本抗争を“栃木戦争”と呼んでいたのも印象的だった。
今は引退した代行からも、この本抗争の“実像”を聴かせて頂いた。
そして此処で“北関東抗争”と呼ばれる本抗争の“表向き”概要に触れる。

2003年4月16日、栃木県宇都宮駅東側に於ける
運転代行業の島(縄張り)を廻り、
初代弘道会東海興業、大栗 章舎弟頭が率いる大栗組と、
二代目親和会田野七代目が和解交渉の場を持つも、
双方共に譲る事なく交渉決裂に至る。
住吉会で二代目親和会と云えば、
当時の十二代目幸平一家に匹敵する程の部闘派一門で通っていた。

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住吉会常任相談役                      
十二代目幸平一家  築地 久松総長            

二代目親和会側が和解交渉を蹴ったのも重大な理由が有った。
この数日前、初代弘道会傘下組員数人が宇都宮繁華街で傍若無人を振い、
意図的に二代目親和会勢力を挑発していたのだ。
当然、その宇都宮繁華街も二代目親和会の島だ。
相手代紋の島を荒らして、相手から仕掛けさせる手口も
歴代山口組の御家芸だ。
そしてその事実を抗争に打って出る為の“大義名分”とする。
要するに初代弘道会側には初めから
抗争を回避する意図など無かったのだ。
有る意味でこの北関東抗争は初代弘道会の
算段に因って起こされた本抗争とも言える。
同時に90年代初頭より本格的に成った歴代山口組の首都圏進出も、
既に首都圏を埋め尽くす程の成果を上げていた。
その結果、進出範囲が北関東にまで拡大して行った時期とも重なる。
迎え討つ二代目親和会も初代弘道会との本抗争を覚悟した以上、
関東の代紋に対してその戦闘力を知らしめる格好の機会だった筈だ。
だが、住吉会執行部にもこの本抗争を利用した
算段が有ったと云われている。
歴史的な本抗争と云うのは表向きには
語られない側面が沢山有る物だ。
中にはその背後に政治経済事件が絡んだ物まで有る。
山口組分裂の件も、此処に到るまでに入ったネタを総合すれば、
最早、業界の範疇で納まる話では無い。
三代目弘道会と強い繋がりを持つ某大企業、
数年前に山口組から引退した超大物組長の強大なコネと云う二点から、
ネタも整理されて来ているが、既に或る程度は巷でも聴こえている。
六代目山口組と神戸山口組と云う構図など大した意味は無い。
警察機関のOB、某生保役員の親父さんも、
抗争が起きないと「何時かは“起こされる”」と溢しやがった。
同時に有る経緯に対して「潰さんと、組対が潰される」とも溢していた。
内外問わず、抗争も長引けばその状況から新たな算段が加わるのも常だ。
そして和解交渉を蹴った双方の行動は直ぐに表面化する。

4月18日午前3時頃、初代弘道会東海興業大栗組本部事務所に対し、
田野七代目傘下組員が2t保冷車を突撃させる。
此処に事実上、北関東抗争が勃発する。
同日午前5時頃、その返しに田野七代目本部事務所へ、
初代弘道会傘下組員が拳銃を十数発発砲する。
更に田野七代目関係の建設会社、麻雀店、
田野七代目傘下組員宅に対しても銃撃する。
この迅速且つその動員力を駆使した返しからも、
初代弘道会が全面的な本抗争に打って出る為の“計画性”が窺える。
又、事の兆しはこの約2週間前から有ったと云う。
初代弘道会本部の有る中部地方より、東京都内の初代弘道会関係先へ
組員の補充が図られたと云う話も聴いている。
全てはこの本抗争を立てる為に“計画”された活動だったのだろう。
又、相手代紋の事務所へ車両を
突撃させるのは歴代山口組の御家芸だが、
この北関東抗争では逆に住吉会側が先手で保冷車を突撃させた形に成る。
既に初代弘道会側の算段を二代目親和会側も読んでいたと想える。
住吉会東京勢の情報力は圧倒的だ。
先手を打って保冷車を突撃させたのも
初代弘道会の挑発を揺ぎ無い覚悟で叩き返す意図が有ったのだろう。
抗争時に於ける手口には常に暗黙の言葉が込められている物だ。
4月21日午前3時頃、大栗組本部事務所に対し、
田野七代目傘下組員が、今度は10tダンプを突撃させる。
張り付け中の機動隊員数人も巻き込まれて軽傷を負う。
同日午前11時頃、栃木県氏家町の県営住宅駐車場にて、
二代目親和会田野七代目傘下組員を初代弘道会傘下組員が射殺する。
此処に北関東抗争初の抗争没故者が出る。
4月23日、抗争激化の兆しを見せる北関東抗争に対し、
栃木県警も直ちに対抗策に打って出る。
同日付けで大栗組本部事務所と田野七代目本部事務所、
そして宮城県仙台市に本部を構える
初代弘道会東海興業本部事務所に対し、
暴力団対策法に基く組事務所使用制限の仮執行処分下す。
だが、既に襲撃班は各所に潜伏しているのだ。
当時も携帯が普及していたのだから、
指揮役や連絡役も事務所に留まる必要性は無い。
暴力団対策法15条の組事務所使用制限には有る狙いが有ると云う。
抗争を事前抑止出来なかった警察機関には、
市民社会からその失態に対する非難が出る筈だ。
そして法案を適用する事で抗争抑止を“演出”するのだと云う。
某機構の親父さんに“挨拶”した際、そんな様な話しを溢したのだ。
私も仕事で事務所の必要性など感じた事も無い。
密会場所なら幾らでも有る。
仕事の方もその“絵図”の元に数人の専門職種を持つ者が動く事に成る。
その連絡も外部共有不能のノートパソコンや携帯が有ればどうにでも成る。
仕事を打つのは都内を中心とした首都圏だが、
携帯さえ有れば鬼怒川温泉からでも連絡を飛ばせる。
寧ろ居場所を知らせてやった方が“奴等”にとっても都合が良いだろう。
そして二代目親和会も初代弘道会に返しを付ける形で、
その懐に飛び込んだ襲撃を決行する。
5月5日午前1時頃、愛知県名古屋市に本部を構える
初代弘道会本部事務所の路上付近にて、
二代目親和会光京睦会二代目(現光京家一家三代目)傘下組員が立つ。
そして初代弘道会司龍興業組員が乗る車を銃撃する。
司龍興業組員は1ヵ月の重傷負う。
又、東京ではこの襲撃に有る一説が発っていたと聴いている。
銃撃されたのは司龍興業組員だが、
眞のが初代弘道会執行部の超大物だったと云う一説が有るのだ。
住吉会は十三代目幸平一家を中心に
山健勢力との繋がりが強く成って来ているが、
弘道会勢力との繋がりは微妙だと云う。
私が抱き込んだ会社にも、四代目山健組三次(濁す)の家紋外しが食い付いて来た事が有る。
そして立場上の理由から、別の企業のケツ持ちを回している。
今では事有るごとに連絡を取り合う仲だ。
同じ家紋外し同士、“惹き合う”物が有るのかも知れない。
苛烈な武闘派で通る“お隣さん”など、
内の看板が当事と成った襲撃が起こる度に携帯を入れて来る。
だが、訳有ってケツ持ちを回すのはお隣さんの一門が最優先だが、
私も立場上、山健勢力と繋がりを持った方が都合の良い部分も有る。
同時に一門には、六代目山口組と共存する為の戦略的な指針も有るのだ。
山口組分裂を睨んだ戦略的指針だった事は確かだが、
一門としては山口組支持で通している。
この件に関しても早速、四代目山健組某有力三次傘下の家紋外しから、
「お宅(一門)も割れる云うネタが入っとる。本当かいな?」と“誘導尋問”も受けている。
だが、明白に「●にしても●●にしても元々船乗りなんだから、
上手く流れに乗っとるよ」と適当に交わした。
実際に一門の執行部でも僅かに意見交換が交わされた程度で、
直ぐに家名に関する議題に移ったと聴いている。





初代弘道会本部前の銃撃事件に話を戻す。
そして本部事務所前で執行部員を銃撃された初代弘道会は、
即座に二代目親和会光京睦会二代目に熾烈な返しを決行する。
同日5月5日午後3時頃、栃木県佐野市に本部を構える
光京睦会二代目本部事務所にて、
野沢 昇平特別相談役と傘下の鈴木組々員が射殺される。
正面玄関より侵入した、
初代弘道会司龍興業傘下組員に因って射殺されたと有る。
同日午後9時頃、栃木県宇都宮市に本部を構える、
二代目親和会下馬木七代目本部事務所前の路上にて、
守りに駆り出されていた二代目親和会勘助十二代目組員が、
近付いて来た車から降りた初代弘道会傘下組員に因って銃撃される。
勘助十二代目組員は重症を負う。
5月6日午前1時頃、群馬県桐生市に本部を構える、
二代目親和会須永十二代目本部事務所に対し、
初代弘道会傘下組員が銃撃する。
同日午後10時頃、その返しとして茨城県土浦市の
初代弘道会傘下組長宅に対し、
二代目親和会須永十二代目組員が銃撃する。
5月8日午後11時頃、群馬県大泉町にて、
二代目親和会光京睦会二代目傘下事務所に対し、
初代弘道会傘下組員が10tダンプカーを突撃させる。
同時にこの前日、29歳で一家名乗りした
光京睦会二代目傘下組長も射殺される。
5月9日、熾烈なる返しを決行する初代弘道会に、
愛知県警も対抗的処置を“演じる”。
そして初代弘道会本部事務所に暴力団対策法に基く、
組事務所使用制限の仮執行処分を下す。
5月13日、愛知県警に呼応する形で栃木県警も
二代目親和会本部事務所、光京睦会二代目本部事務所に対して
暴力団対策法に基く、組事務所使用制限の仮執行処分を下す。
5月14日午後4時頃、栃木県栃木市の県立女子高校正門前の
郵便局駐車場にて、二代目親和会樺山組々員が
初代弘道会傘下組員二人に因って射殺される。
5月15日、既に暴力団対策法に基づく組事務所使用制限の
仮執行処分が下された二代目親和会田野七代目本部事務所、
東海興業本部事務所、大栗組事務所に対して
栃木県警が本執行処分を下す。
同日、この事態を鑑みた初代弘道会執行部が抗争中止命令を下す。
5月16日午前1時頃、山形市の路上にて初代弘道会高橋興業関係者が、
二代目親和会傘下組員に銃撃される。
高橋興業関係者は重傷を負う。
5月19日午後11時頃、福島市のコンビニ・ストアー駐車場にて、
初代弘道会高橋興業傘下組員を
二代目親和会光京睦会二代目傘下組員が銃撃する。
5月20日午前2時頃、山形市のマンション内に本部を構える、
初代弘道会高橋興業本部事務所を
二代目親和会光京睦会傘下組員が銃撃する。
5月23日午後11時頃、宮城県仙台市の初代弘道会東海興業傘下組長宅に、
二代目親和会傘下組員が鉄パイプ爆弾を炸裂させる。
6月12日、初代弘道会と二代目親和会が再度、
抗争終結に向けた和解交渉の為に面談する。
始めは二代目親和会側が抗争終結の話を蹴ったとされるが、
この本抗争に因る双方の疲弊状態を鑑み、
本抗争中止で話が付いたと“される”。
此処に約2ヵ月に及ぶ北関東抗争は“一時中止”と云う形で現在に至る。

当時は二代目親和会も傘下約1200~1500人を誇る、
住吉会最大の武闘派一門だった。
だが、代紋の執行部と云う物は常に突出した有力傘下一門を危険視する物だ。
2005年の住吉会新執行部人事から特にその痕跡が窺える。
そして北関東抗争を“経た”今、二代目親和会も
傘下約500人~700人まで減少している。
仕事絡みで“友達”に成った某順大手ゼネコン役員と
住吉会に関する話に成った際、二代目親和会を会中会と勘違いしていた程だ。
私から明白に誤解を解いておいたが、
結果的に傘下約1500人を誇る住吉会十三代目幸平一家が、
“図らずして”住吉会最大傘下一門と成ったのだ。
一方で2001年の四ツ木斎場事件で、
当時の住吉会六代目住吉一家向後四代目、熊川 邦男総長と、
滝野川七代目、遠藤 甲司総長が
三代目稲川会某一家(解散)傘下の二人に射殺されている。
的取りした某一家傘下組員は、
住吉会の代紋を付けた上で住吉会葬に紛れ込んでいた。
その代紋や住吉会会葬のネクタイ入手元にも、
根強い“疑念”が発っていたと聴いている。
そして向後四代目、熊川 邦男総長と
滝野川七代目、遠藤 甲司総長が射殺された。
だが、“何故か”本格的な返しは幸平一家が打っている。
住吉会では十三代目幸平一家が
戦闘部隊の役目を果たすと黙されるが、理由はそれだけでは無い。
其処には別の重大な理由が有ったのだ。
このでは内の看板、一門も無縁では無い。





一方で5人の抗争没故者を出した北関東抗争は、
関東の代紋が何時かは起こると懸念していた
山口組との本抗争が現実に到る形と成った。
だが先述した通り、この北関東抗争が勃発した
最大要因は五代目山口組若頭、
延いては山口組六代目を懸けた
初代弘道会の算段に有ったと云われているのだ。
その行動力、戦闘力を五代目山口組内に
知らしめるのもその狙いだったのだろう。
遡る1997年、五代目山口組、宅見 勝若頭が直参中野会を“利用”した、
暗殺事件”に晒された為に、五代目山口組若頭は空席と成っていた。
その因果“も”相俟って五代目山口組、渡辺 芳則組長に対して、
直参傘下から非難が相次いでいたとされる。
同時に山口組跡目継承権は若頭に有ると云うのが
山口組の定道では有った。
その最有力候補が初代弘道会、司 忍会長と
三代目山健組、桑田 兼吉組長だった。

桑田三代目
元五代目山口組若頭補佐
三代目山健組 桑田 兼吉組長

2004年2月には、三代目山健組も東京都台東区に本部を構える、
名門神農組織、八代目飯島会と抗争を勃発させている。
この件も私の中で不穏な記憶として残っている。
あれは昼過ぎの報道だったと思うが、
埼玉県や東京都内で複数の露天商が刺殺体で発見されたのだ。
しかもその内の一人は両腿を刺された刺殺体で有ると報道されていた。
既に両腿を刺す手口がヤクザ独特の物で有る事も知っていたのだ。
更に一日の内に数人を刺殺する手口から、
直ぐに五代目山口組関西勢を疑ったのを憶えている。
当然、その行動力、組織力から三代目山健組を疑った事は語るまでも無い。
三代目山健組が“(抗争で)道具は一切使うな”と
全傘下に通達した云う話を聴いた事が有ったからだ。
その八代目飯島会との抗争でも四班から成る抜刀隊を班分けし、
一日の内に八代目飯島会傘下組員2人を刺殺したとされる。
道具を使った殺人罪なら20年以上は塀の中だが、
日本刀で刺した殺人罪なら、行儀次第では18年程度で済むだろう。
今は公衆の面前でをブッ放してを取れば確実に無期だ。
優れた殺傷術に長けた者が何人も塀の中では、代紋の戦闘力にも差し障る。
だが、一部指揮系統に無い三代目山健組傘下組員が、
独断で八代目飯島会傘下事務所や組員を銃撃した。
そして日本最大の神農組織、極東会極東五代目傘下組員を、
誤射殺する重大な事態も招いた。
そして一時、東日本有数の武闘派組織でも有った、
極東会極東五代目執行部が傘下に待機を下す事態をも招いている。
此処で言う待機とは抗争準備と云う意味だ。
又、三代目山健組は1994年にも極東会極東五代目と
“山極抗争”を勃発させた事も有った。
実弾44発を炸裂し合った結果、3人の抗争没故者を出したと有る。
一方で五代目山口組には“血のバランスシート”と云う掟が有った。
「山口の者が一人がられたら、
(った代紋の)相手を四人殺れ!」と云う掟だ。
結果的に三代目山健組と初代弘道会がその抗争戦訓に依り、
次期若頭、延いては山口組六代目候補を
主張する算段が有った事は確実視されている。
初代弘道会は暴力団対策法施行以降、
関東では不可能とも云われた長期本抗争を成し遂げた。
一方の三代目山健組は北海道での発端から僅か二日で、
迅速且つ圧倒的な組織力を以って八代目飯島会を圧倒した。
歴代山口組の強みは結束性に優れた戦闘力に有ると言えるだろう。
だが、宅見若頭暗殺事件の際、桑田 兼吉組長と司 忍会長は、
銃刀法違反で“国策”逮捕されたのだ。
当時でも両者の懲役刑は十分に想定されていたとされる。
特に桑田 兼吉組長の懲役は最早避けられない状況だったとも云われていた。
その収監時期も桑田 兼吉組長の方が早まる事も想定されていた様だ。
そして結局、当時の五代目山口組反主流派筆頭格だった司 忍会長が、
五代目山口組若頭に就任する事と成った。
そして司 忍若頭を筆頭とした反主流派の若頭補佐達は、
様々な“要因”を突き付けて五代目山口組、渡辺 芳則組長を引退させるに到る。
此処に司 忍若頭を組長とする山口組六代目体制が発足する。

弘道           司六代目
六代目山口組三代目弘道会本部     六代目山口組 司 忍組長
                            
又、北関東抗争勃発には避け難たい必然性も有った。
それは1992年の暴力団対策法施行以来、五代目山口組直参が仕事を求め、
大挙して首都東京へ進出した事に端を発する。
暴力団対策法施行後の西日本では、
仕事に困窮するは必至と見越したのだろう。
そして高利や登記飛ばし、株屋などに偽装して首都東京へ進出を遂げる。
同時にその事実は関東の代紋に
五代目山口組との本抗争を覚悟させるに至った。
今は亡き東京都台東区に本部を構えた
二代目義人党、高橋 信義会長も執行部を前に、
代紋が壊滅するまで五代目山口組に対抗する覚悟を伝えたと云われる。
だが結局、1992年1月に関東の某代紋執行部員から、
“有る条件”を飲んだ事で二代目義人党を
解散させるに到ったと云われていた。
そして現在は住吉会武蔵屋一家十代目として活動している。
此処からは少し関東の代紋に於ける特筆点に触れる。
その武蔵屋一家創始者で有る武蔵屋 新蔵初代にも
特筆すべき由縁が有るのだ。
娯楽で度々登場する“遠山の金さん”のモデルと成った
遠山影元は、武蔵屋 新蔵初代の兄貴分に当たる。
幕末の頃は関八州の博徒親分の多くが、
領地の代官所から十手を任されていた。
現在でも関東の代紋は警察機関下請けの側面が有る。
内の看板もその典型だ。
主にOBの“親父さん”連中が相手だが、その内訳も業界流れの捜査協力や
足の世話、“空手柄”など様々だ。
そのネタで上手く現職を動かして、足場固めてるのも良く解かる。
当然、関東の代紋なら政財界の頼みも聞いている。
政界をも巻き込む重大な不正事件が表沙汰と成った際、
妙な首吊り自殺飛び降り自殺を遂げる
関連人物が多いが、それは“気の所為”だろう。
関東の代紋は国家社会の為、粉骨砕身、任侠道に精進している“筈”だ。
大物議員の後援会関係者から50億でお国仕事など滅相も無い。






又、関東では代目が十代に達す老舗名門一門が多い事も特筆点だ。
先述した住吉会武蔵屋一家十代目、
そして現代に於ける武功で、名門一門の誉を更に高めた、
住吉会十三代目幸平一家など、
江戸時代に結成された一門の多くが今も現存している。
特に象徴的なのは六代目松葉会八代目上州国定一家だろう。
19世紀前半に幕末の大侠客、国定 忠治こと、
長岡 忠冶朗が結成した一門とされる。
一時は衰退が著しく、北関東抗争で触れた
光京睦会二代目預かりの身と成ったが、
松葉会、牧野 國奉先代の尽力で、
現在は群馬県みどり市に本部を構えるに到っている。
又、私の地元埼玉県本庄市は日本最大の河川、
利根川を隔てて群馬県と隣接する。
商業都市の高崎市や県庁所在地の前橋市では、
国定 忠治も地護神と化している程の扱いだ。
通り沿いに土産物屋が沢山有る。
散発的な抗争は有るが、昔からヤクザ社会が
市民社会に或る程度は溶け込んで来たのが群馬県の気風だろう。
仕事も公共事業に土建屋で堅く打っている所が多いと聴いている。
そして群馬県高崎市には、
六代目松葉会十二代目北関東大久保一家も本部を構える。
18世紀前半に結成されたとされる、
日本最古の元祖博徒一門としてその知名度を誇る。
荒くれ者を束ねて盆を開く事で生きる糧を得る、
博徒らしい姿を初めて実践した一門とされている。
同時に結成後に上州渋川代官と対立した為、
約100年以上の潜伏期に晒されたと云う話も有名だろう。
国定 忠治が赤城山へ潜伏した際にも、
身の回りの世話を看ていたとされる。
又、松葉会、牧野 國泰先代に依れば、
その潜伏時代に少なくとも七代は代替わりしたと云う。
それが事実なら、北関東大久保一家の代目は少なくとも十九代目に成る。
同時に牧野 國泰先代は北関東大久保一家十代目総長を歴任した。
そして六代目松葉会、荻野 義朗会長も
北関東大久保一家十一代目総長を歴任したのだ。
(立場上、現在の松葉会に触れる事は避ける)
“上州博徒”と云う称号が示す通り、博徒発祥の地とされる群馬県には、
江戸時代に結成された老舗名門一門の多くが現存する。
内の看板にも国定 忠治を扱う娯楽で、
度々登場する名門老舗一門が現存している。
群馬県に限らず、関東の代紋に老舗名門一門が多いのは、
厳然たる島割りが守られて来た歴史が有るからだろう。
お上の御前で勢力争いも最小限に留意した事も挙げられる。
更に戦後、悪戯に警察機関へ
敵対姿勢を取らなかった事も挙げられるだろう。
首都圏では警察機関や政財界との癒着度も圧倒的だ。
でなければ私の様な仕事など打てる訳が無い。
迂闊に奴等へ“挨拶”すれば、その場にて“おとり”現行犯逮捕だ。
当然、老舗名門一門は関東以外にも現存する。
代表的なのは静岡市に本部を構える
六代目山口組六代目清水一家だろう。
家名が黙す通り、幕末大侠客で有る、
清水ノ次郎長が結成した老舗名門一門とされる。
同時に2003年に大規模闇金融事件で摘発された、
五代目山口組初代五菱会が家名直しで現存させた一門でも有るのだ。


高木六代目
六代目山口組若頭補佐
六代目清水一家 高木 康男総長   

当然、地元住民が初代五菱会の
清水一家六代目名乗りに反発したのは語るまでも無い。
地元住民は清水ノ次郎長を観光資源にして来たのだ。
だが、初代五菱会、高木 康夫会長と
その前身だった初代美尾組、美尾 尚利組長は、
昭和41年まで存在した五代目清水一家の若衆だったのだ。
五代目清水一家の為にを賭けたのだから、
実力の有る高木 康夫会長に清水一家六代目継承権は
十分に有ると私には想える。
地元住民は「指定暴力団は清水一家を名乗るな」と叩いたが、
現代のヤクザ組織は内実に関係なく全て暴力団扱いだ。
実際に田辺 金吾先代が清水一家を解散させたのも、
家名が暴力団呼ばわりされる事を嫌った為とされる。
六代目清水一家前身の初代五菱会も大規模闇金融事件で摘発されたが、
現代では権力社会が悪辣な金権体質なのだ。
その金権社会に食い込む為には、
ヤクザ社会にも依り“変則的”な金権体質が求められる側面も有る。
暴排条例だ何だ言っても、役員席を回したOBの親父さんを
暴力団関係者に認定出来るなら、やってみろ、だ。
認定して役員会から追い出せば、
組対連中も内の情報を得られなく成るだけだ。
だが、基本的には法令遵守で通しているが、
それも元の種金がデカかっただけだ。
内の一門も金庫が苦しければ何れ執行部から切られる体質が有る。
市民社会が不景気なのだから、詰め指や全身に墨を彫った者に
就職先など有る訳が無い。
手に職も持たず、40を過ぎていれば尚更だ。
暴力団対策法の規約に有った就職斡旋などまるで機能していない。
生きる為にはヤクザとして市民を食うしか無いのだ。
私は抱き込んだ会社にも“二人三脚”で儲けさせて来た積もりだが、
それが出来るのも、やはり元の金庫がデカかったからだ。
同時に看板の威光は暗黙の脅しに成る。
だが、幕末大侠客にも、常に“悪役”として語り継がれて来た侠客も居るのだ。
それが清水ノ次郎長の敵役と黙された甲州博徒、黒駒ノ勝三だ。
黒駒ノ勝三は私が最も共感出来る幕末代侠客でも有る。
親分、竹居ノ安五郎の為に自らを犠牲にした部分へ
特に強い共感を持てるのだろう。
独断で仕事を打つ自身の立場からも
共感出来るのかも知れない。
仕事で内偵食らうとしたら真っ先に私からだ。
その仕事には歌舞伎町から叩き出された幇連中や
香港三合会傘下の奴等からわれ兼ねない物も有る。
知人の看板持ちに回す事も有るが、掛け合いも月二、三本は来る。
何れにせよ、静岡県民が清水ノ次郎長を
“善役”として観光資源にする為には、
黒駒ノ勝三を永遠に“悪役”にしなくては成らないのだろう。
だが、元より清水一家は“高利”もやる博徒一家だ。
幕末風情の任侠劇団では無い。
博徒一家なのだから盆では“貸し賭け”もやっていた筈だ。
負け金詰めで“登記ハガシ”もやっただろう。
六代目山口組六代目清水一家も時代気風に順応した、
現代の清水一家で有ると私には想えるのだ。
法案で抗争も出来ないのでは、“金”で抗争するしか無い。
だが、そんな時代の中で“ヤクザの本質”が体現された
歴史的本抗争が勃発するのだ。





2006年5月22日、此処からは訳有って、少し私の実像にボカシを入れる。
あれは翌朝の報道だっただろう。
何処かで“解かっていた”が、私はその報道に触れた瞬間、
時代認識が捻じ曲がる様な感覚を憶えたのだ。
報道は大体こんな感じだった筈だ。
   昨夜午前11時頃、福岡県を中心に
   暴力団抗争と見られる事件が相次ぎ、
   福岡県警によりますと久留米市に本部を置く
    指定暴力団、道仁会関係先事務所、     
   数ヶ所に爆発物が投げ込まれ、
    また、道仁会本部にも機関銃と思われる、、
C4などの爆発物なら解かるが、代紋の本部事務所に
機関銃ではまるで昭和30年代の話だ。
一方で内の看板も歴代道仁会とは“複雑な”繋がりが有る。
私には“何処か”で解かっていたのだ。
時期から見ればこの10日程前からだろう。
新宿で有る話が聴こえていた。
  九州の道仁が(二つに)割れる、跡目(問題)から音が鳴る。
  割った方に山健(組)が付く。
その日は事実上、二代目道仁会とその分裂勢力、
三代目村上一家に因る“九州戦争”が勃発した日だった。
二代目道仁会傘下事務所に爆発物を投げ込んだのが、
三代目村上一家勢力で有る事も、直ぐに見当が付いたのを憶えている。
この数ヶ月前に勃発した六代目山口組二代目浅川一家と、
二代目道仁会三代目村上一家,神闘総業を中心とした抗争の際にも、
二代目道仁会側が手榴弾を使用していた事“も”有ったからだ。
同時に「跡目から音が鳴る」を思い出しながら、
「やりやがった」と心の中で呟いたのも憶えている。

道仁本部
元三代目道仁会本部

又、“音が鳴る”と云うのは、主に関西ヤクザ社会で
使われる“抗争に成る”の隠語だ。
関東ヤクザ社会でも使われるが、
他に“ガラスが割れる”と云う隠語も有る。
何もせんと(他所から)舐められるから「だけでもブチ込んでおこう」と云う、
関東ヤクザならではの発想なのだろう。
後述で本格的にこの本抗争の概要に触れるが、ここで触りを先述する。
5月22日午後11時丁度、三代目村上一家側の
先手襲撃が同時刻に決行される。
福岡県久留米市に本部を構える二代目道仁会本部事務所に対しては、
ロシア製AK47アサルト・ライフルが掃射される。
更に4ヶ所の二代目道仁会傘下事務所に対しては
アメリカ製手榴弾が炸裂した。
別説も有るが、全ての襲撃決行時刻は
午後11時丁度の同時刻とされている。
関東ではこの抗争手段を“時計合わせ”と言う者も居る。
通常の抗争では自ずと時間差が置かれつつ一つ、
又一つと襲撃する事に成る。
だが、この手口では初襲撃決行の連絡を受けた警察機関に因って、
次の襲撃が阻止される可能性が出て来る。
だが、同時刻襲撃で行けば、警察機関が事態を認識しても後の祭りだ。
同時刻襲撃なのだから、警察機関が動き出した頃には
第一波は終わっているのだ。
本抗争としては1986年に勃発した“新大阪戦争”にて
史上初、この同時刻襲撃が決行されたと云われる。
史上例の無い画期的な抗争手段は、
直ぐに他所代紋も“応用”する物だ。
抗争には少なからず“知能戦”の側面も有るだろう。
関東の某代紋では抗争中に、内部の一派が他所代紋を招き入れ、
組織再編の邪魔者を始末させようと狙った物まで有る。
“沈黙を流れる風”も全てがフィクションでは無い。





此処で二代目道仁会と三代目村上一家に因る、
“九州戦争”の本抗争概要に触れる。
事の経緯に“云われる”や“聴こえた”と云う表現を用いるが、
別に自ずと聴こえて来た訳では無い。
私の方から最悪の事態に備えて自主的に情報を拾っていたのだ。
依って私の周囲の反応を交えながら九州戦争の経緯を辿る事とする。

今世紀初頭以降、二代目道仁会は破竹の勢いで
九州の勢力圏を拡大させていた。
特に大きな働きをしたのが二代目道仁会の
最大傘下一門、三代目村上一家だったと云われる。
当時の二代目道仁会は、修行中の若衆や関係者も含めて
約900~1300人の大所帯だった。
その最大傘下一門で有る三代目村上一家も
約400人前後の大所帯を誇った。
特に三代目村上一家、浪川 政浩理事長は二代目道仁会に在って、
突出した資金力と人望を誇っていたとされる。
その三代目村上一家も、浪川 政浩理事長の提唱で
早くから関東や東北地方にまで進出していたのだ。
同時に典型的な九州気質と云われた
三代目村上一家、村神 長二郎総長は、
三代目村上一家に関わらず、
血気盛んな若衆から多大なる人望を得ていたと云う。
だが、代紋と云う物は常に傘下の勢力均衡を図る物だ。
それは先述の北関東抗争で露呈した算段も自ずと語っている。
基本的に代紋と云う物は代紋頭や
その意を受けた懐刀に力の配分を集中させる物だ。
そして最終的に代紋頭が治め易い組織体制が作られる。
二代目道仁会の代紋頭たる松尾 誠次郎会長は、
大中 義久理事長を懐刀に選んでいた。
同時に松尾 誠次郎会長はその意に反して
勢力を拡大する三代目村上一家を、
次第に危険視する様に成ったとも云われている。
特に危険視されたのが、関東の不動産業界にまで進出した、
三代目村上一家、浪川 政浩理事長だった。
浪川 政浩理事長の行動力は二代目道仁会執行部が
その進出範囲すら把握出来ない程の迅速さが有ったとも云われている。
関東でも確実に名が売れていた。
そして二代目道仁会執行部はその対処として、
三代目村上一家やその同盟に有る永石組などの仕事を、
二代目道仁会執行部で一括したのだと云う。
狙いは松尾 誠次郎会長の意に反して突出する、
三代目村上一家の弱体化だろう。
だが、その一方的対処が次第に三代目村上一家と
永石組に不満を募らせたとされる。
特に拡大路線で通していた三代目村上一家は
仕事に困窮する傘下を多く抱えていた。
この勢力均衡に因り、シノギの厳しい傘下の仕事まで
儘成らなく成れば、その傘下は更なる死活問題に陥るのだ。
結果的に末端から潰れて組織力にも支障を来たすだろう。
この様な勢力均衡が図られる事は
関東の代紋でも決して珍しい事では無い。
関東の某代紋でも一時は反主流派と言える勢力が存在したが、
その二番手と黙された老舗名門一門が
覚醒剤の大規模密輸で“何故か”摘発されたのだ。
そしてその老舗名門一門傘下の大部分が、
反主流派だった某大規模武闘派一門に移籍している。
そして勢力均衡を図った一派に“匹敵”する勢力を、
その某大規模武闘派一門“も”得たのだ。
結果的に“自ずと”肉薄する二つの勢力が対峙する形で、
逆に勢力均衡が図られてしまったと云う本末転倒な結果に到っている。
今ではその勢力均衡を図った一派に、
多くの傘下一門から非難が相次いでいるとも聴いている。
だが、九州ヤクザ社会ではこの様な勢力均衡など到底、
受け入れ難たい気風が有ったのだろう。
そしてその様な中で二代目道仁会執行部が、
後の道筋を決定付ける重大なる局面に到達した。
2006年5月10日、緊急に催された二代目道仁会執行部会合の場で
突如、松尾 誠次郎会長が引退を表明する。
同時に松尾 誠次郎会長は、
二代目道仁会、大中 義久理事長に跡目を指名する。
引退の理由は“主に”心の問題と、先述した勢力均衡の結果を
見定めたからだとも云われる。
だが、何の相談も無く下された決定事項に、
執行部会では即座に意見対立が表面化したとされる。
又、道仁会三代目に指名された
大中 義久理事長の戸席上本名は松尾 義久だ。
その名が黙す通り、松尾 誠次郎会長の養子分に当たる。
ヤクザ社会で養子分に跡目を譲るのは一つの柵では有るが、
それが派閥対立の源に成って来た歴史もまた事実だ。
関東も都内は少ないが、代紋の三次、
四次ではこの傾向が特に顕著だろう。 
一方で反発勢力筆頭格の三代目村上一家にも
数え切れぬ程の抗争戦勲が有った。
道仁会は昭和58年にも四代目山口組初代稲葉一家、
伊豆組と“山道抗争”を勃発させている。
山道抗争も抗争没故者9人を出す程の歴史的本抗争と成った。
三代目村上一家も山道抗争では多大なる働きをしている。
だが、その本抗争手打ち後、初代道仁会の金庫に
底が見えてしまったとも云われる。
その金庫を大規模な覚醒剤卸しで持ち直せたのは、
三代目村上一家、浪川 政浩理事長の尽力が
有ったからだと黙されているのだ。
そして西日本の某代紋に卸されて、
最終的に関東の代紋にも覚醒剤が卸されていた。
市民社会からは赦し難き所業だろうが、
代紋を守る為なら何でもすると云うのが、
私も含めたヤクザ社会に生ける者の宿命だろう。
代紋有ってこそのヤクザだ。
浪川 政浩理事長の人柄も、
関東の多くの代紋持ちから高い評価を得ている。
弱い者いじめを嫌う反面、強い者の言い分も
聞き入れる器を併せ持つと云うのが関東での評判だろう。
強き者には強き者としての自尊心が有る。
その自尊心を踏み躙られれば、強き者が耐え難い屈辱を舐める事も有る。
そして強き者を叩き伏せた“任侠気取り”の存ぜぬ所で、
弱き者が仕返しに遭ったと云うのも良く有る話だ。
その不始末を打たない為には両者への繊細な配慮が必要と成るのだ。
そんな浪川 政浩理事長が弱き者を破滅に導き兼ねない程の
汚れ仕事を“敢えて”買って出たのだ。
その汚れ仕事も決して大規模覚醒剤卸しだけでは無い。
そして見事に初代道仁会の金庫を立て直したと云われている。
三代目村上一家勢力にも抗争戦訓や
代紋を立て直したと云う頑な自負が有ったのだろう。
又、道仁会三代目に三代目村上一家、
村神 長次郎総長を推す声も一部では有ったと云う。
だが、此処で噴出した主な異論が、
村神 長次郎総長と浪川 政浩理事長の
“出自”に関する懸念だったと云う説も俄かに囁かれていた。
二代目道仁会執行部が浪川 政浩理事長の
“人脈”を危険視していたと云うのだ。
大規模覚醒剤卸しの経緯を想像すれば、自ずと解かるだろう。
同時に先述で示唆したが、この前後に三代目村上一家勢力が
六代目山口組四代目山健組の某執行部本役へ、
事の相談を持ち掛けていたとされている。
その内実は諸説入り乱れているが、
後に“或る程度”は表面化する事に成る。
三代目村上一家勢力が、二代目道仁会と
袂を分かつ為の先手一片だったのだろう。
更に浪川 政浩理事長と永石 秀三組長は、
既にこの時点で有る算段を秘めていたとされる。
そして5月16日、三代目村上一家勢力は、
村神 長次郎総長を筆頭とする連名で、
二代目道仁会からの脱会書状を関係各所へ送付する。

  今般、私儀、村神 長次郎、及び永石 秀三はこれまで、
  松尾 誠次郎親分を日本一の侠客と仰ぎ、
  その心根に微塵の邪なく、松尾親分の御指導の元、
  道仁会の組織発展をひたすら考えると同時に、
  道仁会の代紋を金看板として研いて来たつもりで御座います。
  その道仁会の会長引退、またそれに伴う跡目継承の問題は
  重大な問題であるにも関わらず、執行部会に打診及び何の承諾も無く、
  先の五月十日におきまして突如、松尾誠次郎親分の引退声明後、
  何の相談もなく、三代目決定の言い渡しを受け、
  会員一同の心中は如何なるものかと察するあまりであります。
  この度の発表で松尾誠次郎親分が引退されるのであれば、
  私たち両名は道仁会から脱会し、独立組織として渡世を歩む決断を、
  止むに止まれぬ断腸の思いで余儀なく強いられた訳であります。
  私達のとった行動に対し疑問を投げかけられ、
  非難を浴び、賛否両論である事と存じます。
  どうか、御尊家御一統様におかれましては、
   今後ともご理解ある御指導の程、
  宜しくお願い申し上げます。
  
  敬具
  三代目村上一家総長
  村神 長次郎
  永石組組長
  永石 秀三

この脱会書状を受けた二代目道仁会執行部は、
同日16日付けで三代目村上一家、村神 長次郎総長と
永石組、永石 秀三組長に対して“絶縁九州所払い”の処分を下す。
5月19日、此処に三代目村上一家勢力、二代目道仁会より脱会に至る。
同時にこの前後、三代目村上一家勢力が二代目道仁会執行部に対し、
“ここから先は何でも有り”云う本抗争も厭わない、
事実上の宣戦布告を明言したと云われている。
同時に脱会した三代目村上一家勢力と合流する為、
共に大中 義久三代目体制に異を唱えた、
鶴丸 善治組長率いる鶴丸組も脱会する。
更に三代目村上一家、浪川 政浩理事長と強い繋がりの有った、
高柳組、高柳 弘之組長も二代目道仁会より脱会に至る。





そしてついに三代目村上一家勢力が戦慄の同時刻襲撃を決行する。
5月21日午後11時丁度、以下の同時刻襲撃が決行される。
二代目道仁会本部に対してはロシア製AK47アサルトライフルが掃射される。
そして二代目道仁会小林組事務所、福田組事務所、
堤組事務所、松永組事務所に対してはアメリカ製手榴弾が炸裂した。
此処に事実上、“九州戦争”が勃発する。
又、四ヶ所の傘下事務所への手榴弾炸裂は、
二代目道仁会本部事務所へAK47が掃射された
前後5分の間に決行されたと云う説も有る。
5月22日、当日付けで二代目道仁会執行部は、
三代目村上一家、浪川 政浩理事長にも絶縁・九州所払いの処分を下す。
理由は想像に任せる。
だが、この同時刻襲撃に対して二代目道仁会側は、
三代目継承式典挙行の為、延いては三代目村上一家への
返し仕度の為に敢えて黙然の禁を保つ。
5月23日、此処に道仁会三代目継承式典が挙行される。
道仁会三代目は松尾 誠次郎先代が指名した大中 義久理事長が継承する。

道仁

道仁会の代紋

三代目道仁会理事長には服役中で有る
小林組、小林 哲司組長が就任した。
大中 義久理事長が道仁会三代目を継承すると、
松尾 誠次郎二代目は“一応は”引退したとされる。
だが、実際はこの事態を受けて三代目道仁会に留まる事に成る。
事の収集が図られるまで、引くに引けなく成った事も理由に挙げられている。
5月24日午前1時頃、三代目継承式典を無事に挙行した
三代目道仁会、ついに黙然の禁を破る。
福岡県筑後市に本部を構える三代目村上一家仁政会事務所に対し、
三代目道仁会傘下組員が火炎瓶を投げ込み、仁政会事務所を全焼させる。
事務所が古い木造建築なら話は別だが、
火炎瓶で鉄筋コンクリートの事務所を全焼させるのは至難の技だろう。
抗争時なのだから監視役の当番組員も増やしていた筈だ。
仁政会事務所が鉄筋コンクリートだとしたら、
敢えて全焼させ易い場所を事前に熟知した上で火炎瓶を投げ込んだ筈だ。
何れにせよ、三代目道仁会側に
当番組員数人のを取る事も辞さない激大なる決意表明が伺える。
5月28日午後4時頃、その返しとしてか、佐賀県唐津市の路上にて、
原付バイクに分乗する三代目村上一家傘下組員二人が、
三代目道仁会道志会組員を銃撃する。
道志会組員は重症を負うもは取り留める。
この襲撃は道志会組員の的取りを狙ったと思われる。
同日午後4時頃、福岡市博多区に本部を構える三代目道仁会松永組事務所を、
三代目村上一家傘下組員が銃撃する。
松永組々員一人が軽症を負う。
5月29日午前4時頃、三代目村上一家傘下組員が、
第一波攻撃で手榴弾を炸裂させた福岡県久留米市の
三代目道仁会堤組事務所と大平組事務所の二ヶ所を銃撃する。
一方でこの九州戦争には強大な“第三勢力”が存在したのだ。
その第三勢力で有る福岡県警も
報道機関を利用した暴力団弱体化作戦を開始する。
この頃、福岡市や三代目道仁会が本部を構える
久留米市の商工会と、福岡県警関係者が
念密な計画を練っていたとされる。
そして報道を介して福岡県民に九州戦争の恐怖心を煽り立てる事で、
ついに暴力団追放運動を決起“させる”に至ったのだ。
暴力団追放運動と云う物は少なからず、
警察機関の働き掛けで実行される物だ。
当事にデッチ上げの罪状を打ち捲くり、
その功績を元に、組対の“存在価値”を市民社会に思い知らせる。
そして高級クラブなどで「何か有ったら、何時でも言ってくれ」と、
飲代を踏み倒して“カスリ”を取る。
関東では所轄署とヤクザの“挨拶関係”を市民に悟らせぬ為、
所轄署が“両者総意”の元で暴力団追放運動を展開“させた”例も多い。
だが、三代目道仁会と三代目村上一家は
この事態を黙して受け止めたとされる。
そしてこの事態を鑑み、此処に本抗争一時休戦の意を決す。
当然、この一時休戦も表向きには市民の暴力団追放運動に、
配慮を“装う”側面も有ったのだろう。
疲弊した金庫や武器弾薬を補充する時間も稼げるのだ。
同時にこの隙を縫う形で九州のヤクザ連盟、九州四社会が
九州戦争の和解交渉を三代目道仁会側に促したとされる。
九州四社会の加盟代紋は四代目工藤會を筆頭とし、
三代目道仁会、四代目大州会、初代熊本會で構成されていた。
だが、九州四社会の本音はこの九州戦争に
出来る限り関わらないと云う物だったとされる。
調停の方向性を誤る事で、結果的に三代目道仁会との
関係が悪化する結果“も”嫌ったのだろう。
代紋破りを決行した三代目村上一家勢力は
既に九州四社会の敵対勢力だ。
三代目村上一家が脱会した頃には三代目道仁会側に
四代目工藤會と四代目大州会が付くと云う話も東京では流れたが、
そんな物など体面作りの“デッチ上げ”だと切り捨てる向きも多かった。
関東二十日会の“体質”を知る者ならではの受け止め方だったのだろう。
又、九州四社会には更なる懸念が有ったのだ。
この九州戦争を注視する六代目山口組の動向だ。
関東では“西のお客さん”とも云われている。
この件も含めた様々な懸念を抱えた九州四社会は、
九州戦争よりも六代目山口組の動向を特に注視したのだろう。
既に六代目山口組の算段を読んでいたのかも知れない。
6月11日、そして三代目村上一家勢力も、
依り一層の決意表明を示す為、
此処に“九州誠道会”を結成する。

誠道
九州誠道会 誠の代紋
 
九州誠道会初代に就任したのは三代目村上一家、村神 長次郎総長だった。
九州誠道会理事長には三代目村上一家、浪川 政浩理事長が就任する。
本部事務所は三代目村上一家の本拠で有る福岡県大牟田市に置かれる。
だが、この執行部人事にも有る算段が有ったと云われている。
九州誠道会にはそれ程の時期を置かず、
浪川 政浩理事長に九州誠道会二代目を継承させると云う話が有ったのだ。
村神 長次郎会長は有る“重大な問題”を抱えていると云われていた。
有る意味で村神 長次郎初代体制は福岡県警に対する囮の新体制に成る。
後にその重大な問題も“不明瞭”な形で表面化する事に成るのだ。
同時に中核傘下と成った村上一家の新人事も決定した。
村上一家四代目には九州誠道会、浪川 政浩理事長が就任する。
一概には言えないが、会制の場合は次首領たる
理事長が跡目継承権を得る場合が多い。
先の説に照らせば四代目村上一家、
浪川 政浩総長が眞の九州誠道会々長と云う形に成る。
何れにせよ、九州誠道会が結成された事で、
道仁会分裂は此処に決定的事実と成る。
そしてその決定的事実に三代目道仁会もついに行動を起す。
此処に約二週間の黙然の禁を破る形で“九州戦争”が再激化する。
 
6月16日午前11時頃、佐賀県久保田町の九州誠道会、
鶴丸 善治相談役の自宅兼事務所に対し、
三代目道仁会傘下組員が火炎瓶を投げ込むも大事には到らず。
7月3日午後2時頃、長崎県佐世保市にて三代目道仁会傘下組員が乗る車を、
オートバイを駆る九州誠道会傘下組員が追い抜き様に銃撃する。
だが、は外れて三代目道仁会傘下組員は難を逃れる。
7月8日、熊本県玉名市にてこの九州戦争や道仁会分裂を
赦したと云う自責の念に駆られてか、
三代目道仁会二代目古賀一家、上田 幸秀総長が自決を決す。
三代目道仁会に籍を置きつつも、過去の経緯から九州誠道会、
村神 長二郎会長や鶴丸 善治相談役への恩を貫いた結果だとも云われている。
7月16日午後10時頃、熊本県合志市にて九州誠道会四代目村上一家忠真会、
中村 文治会長が三代目道仁会道志会組員に銃撃される。
中村 文治会長は重症を負うもは取り留める。
7月17日午後11時頃、佐賀県唐津市の三代目道仁会道志会事務所へ、
九州誠道会傘下組員が手榴弾を炸裂させる。
7月22日午後10時頃、長崎県佐々町のアパート駐車場にて、
九州誠道会傘下組員が三代目道仁会傘下組員に銃撃される。
だが、は外れて九州誠道会傘下組員は難を逃れる。
8月13日午後9時頃、佐賀県伊万里市の飲食店前にて
九州誠道会傘下組員3人を、三代目道仁会石政組々員十数人が
ゴルフクラブなどで襲撃する。
9月25日午前5時頃、佐賀県唐津市の三代目道仁会道志会事務所に対し、
九州誠道会四代目村上一家傘下組員が火炎瓶を投げ込む。
事務所は大事に至らなかったが、車二台が焼ける。

この九州戦争再激化に、九州四社会も有らゆる方面に奔走していたと云う。
その奔走劇が功を奏したのか、九州戦争は再び一時的に沈静化する。
又、この時点までの抗争手段も一部には的取りが疑われるが、
何処か和解の道をも模索する様な遠慮が有ったと云われる。
既に九州戦争の水面下では六代目山口組も躍動していたのだ。
先述した北関東抗争と同様に、抗争には内外共に
様々な勢力の意向が作用している事が多い。
敵も定かでない抗争に晒されない為には、
内外共にその動向を注視しなければ成らない。
全ては抗争時の混乱の中で妙な奴等にハメさせない為だ。
九州も決して三代目道仁会だけが力を持っていた訳では無い。





この頃、四代目工藤會を中心とする九州四社会の奔走に依り、
様々な和解交渉が水面下で展開されたと云われている。
だが最早、事態は収集不能なまでに悪化していた。
九州四社会が妥協案を出しても、
三代目道仁会側は「誠道が解散して詫びを入れない限り、
一切、受け入れられない」と頑なに譲らなかったとされる。
(三代目道仁会が九州誠道会発足を承認しなかった以上、
実際は村上と名差ししたと思われる。)
一方の九州誠道会側も“一度出た者が戻る事ほど、
恥ずべき事は無い”と一歩も譲らなかった云われている。

工藤本家

五代目工藤會本家

その両代紋の頑な対決姿勢が、
九州戦争を最悪の事態へ導く事に成るのだ。
だが、私にはこの頃、三代目道仁会側が
九州誠道会の存在を“一旦は”認め、
後に様々な手段にて傘下組員のみを三代目道仁会に復帰させる。
そして九州誠道会を弱体化させて解散に追い込むと云う楽観が有った。
だが約一年後、ついに九州戦争は相手代紋の
的取りに絞った再激化を遂げるのだ。
今に想えば、此処までの九州戦争は
本抗争への序曲でしか無かったのだ。
 
2007年6月11日、この頃、九州四社会に対して三代目道仁会側が、
強い不信感を募らせていたと云われている。
理由は九州四社会に加盟する某代紋の背後関係に有ったとされる。
この頃、三代目道仁会や九州誠道会には秘密裏に、
その某代紋が関東の某代紋とも接触していたのだ。 
九州誠道会側が、六代目山口組四代目山健組,有力執行部員と
接触していた事にも不信感を募らせたのだろう。
九州四社会の加盟組織にも其々が秘めた
競争意識が有った事は語るまでも無い。
そして九州四社会への不信感に、
三代目道仁会側も一つの答えを出したのだろうか?
一説では急遽、数ヶ月に渡り、
別の九州誠道会有力執行部員を狙っていた潜伏部隊に、
の変更が伝えられたとされる。
6月13日午後6時頃、佐賀県久保田町にて
九州誠道会、鶴丸 善治相談役が三代目道仁会傘下組員二人に因り、
日本刀で15箇所以上を刺されて刺殺される。
此処に九州戦争初の抗争没故者を出す。
相談役は多くの場合、代紋頭や執行部員の実質先輩格に当たり、
執行部内からも人柄の面で慕われている場合が多い。
鶴丸 善治相談役も例に漏れず、昔気質の気さくな人柄から
九州誠道会は勿論、地元市民からも高い人望を得ていたとされる。
そして葬儀には民主党佐賀県連代表、大串 博志衆院議員や
古賀 善行佐賀県議、武藤 恭博佐賀市議など地元政界人も参列している。
又、葬儀の際に六代目山口組四代目山健組傘下組長が
弔辞を唱題したと云われている。
6月19日午後5時頃、熊本市にて九州誠道会忠真会、
入江 秀則会長宅に三代目道仁会傘下組員三人が侵入する。
そして家内に居た入江 秀則会長をその場にて射殺する。
更に刃物で数ヶ所をされていた。
銃弾は頭部蟀谷を貫通していたとされる。
この頭部蟀谷にを打ち込む殺傷法
九州ヤクザ特有の物と云われている。
ついに九州戦争の抗争戦術も本格的な的取りに移行する。
7月6日、九州誠道会、浪川 政浩理事長と傘下組員3人が、
福岡県警に詐欺容疑で逮捕される。
九州戦争に対する“国策”逮捕と思われる。
だが、浪川 政浩理事長は頑として口を割らず、20日後に釈放される。
7月16日午前3時頃、九州誠道会永石組、田口 耕治相談役の
事務所兼自宅に対し、三代目道仁会傘下組員二人が
手榴弾又はC4と思われる爆発物を炸裂させる。
又、爆発が起こったのは田口 耕治相談役の二階寝室横だったと有る。
三代目道仁会傘下組員二人が脚立で
二階ベランダに登ると云う周到な侵入手段からも、
田口 耕治相談役の的取りを狙った可能性が疑われる。
所で九州誠道会、鶴丸 善治相談役が刺殺されて以来、
九州誠道会側の本格的な返しが無い。
鶴丸 善治相談役と入江 秀則会長の没故で喪に服していたと
見る向きが大勢を占めたらしいが、
東京では一部で有る一説も流れていたのだ。
その一説とは、二人の幹部を的取りしたのが
三代目道仁会では無いと云う物だった。
私も周到な的取りに抗争戦術が変わった部分“にも”不審な気配を感じていた。
疑惑を持たれたのは西日本の某代紋と“何故か”内の看板だった。
内の看板の疑惑は、過去の覚醒剤取引に関する物や
過去の怨恨からドサクサに紛れる形で、
香港三合会傘下の者に的取りさせたと云う、
如何にも有り触れた物も有った。
理由は先述した示唆からの想像に任せる。
西日本の某代紋に掛けられた疑惑は九州戦争の和解交渉に関する物だ。
この説にも内の看板が関わったと“されて”いた。
内の看板も過去の経緯から歴代道仁会とは“複雑な”繋がりが有る。
その際に道仁会執行部が、内の看板に強く反発したと云う経緯も有った。
九州誠道会“にも”その経緯が継がれた物と
思わざる負えない状況も有ったのだ。
この時点では襲撃犯も逮捕されていなかった。
だが、内の看板執行部や一門執行部から待機は一度も掛かっていない。
早期の疑惑払拭が図られたのだろうが、
私は警戒を怠らなかったのを憶えている。
実際はこの頃、鶴丸 善治相談役と入江 秀則会長が的取りされた件で、
九州誠道会執行部では有る憶測が発っていたと云う。
同時にその憶測が九州誠道会に赦し難き恚激心を漲らせたのだと聴いている。
そしてその漲る恚激心を汲んだ傘下組員数人が、
ついに究極の算段を秘めて潜伏したとされている。
又、この究極の算段を九州誠道会執行部は承認していなかったとされるが、
九州誠道会、村神 長二郎会長は承認していたと云う一説が有る。
だが、如何にも胡散臭い“気配”が漂う一説だった。
そしてその理由も後に或る程度は表面化する事に成る。
 





2007年8月18日、ついに傘下組員が秘めた究極の算段が決行される。
その日、三代目道仁会、大中 義久会長は
海外旅行からの帰路に着いていた。
そして迎えに来た愛人の車で福岡市中央区黒門に差し掛かった時、
突如として九州誠道会三代目村上一家傘下組員の乗る
車に進路妨害されたと有る。
大中 義久会長は即座に車外へ逃亡を図ったが、
運悪く対向車に当たってしまう。
そして身動きが取れなく成った大中 義久会長の頭部蟀谷に、
車から飛び出した三代目村上一家傘下組員が三発の銃弾を放つ。
此処に三代目道仁会、大中 義久会長、
三代目村上一家傘下組員に因って射殺される。
報道で事件の一報に触れた時、私は直ぐに会へ連絡を入れている。
先述の疑惑劇でも垣間見れた筈だが、
基本的に私は些細な事でも、常に最悪の事態を想定する性だ。
生意気を百も承知で、それが私の役割だと自認してもいる。
その源に有る物は語るまでも無いだろう。
報道から射殺した者が九州誠道会傘下組員と云う見当も“一応は”付いたが、
大中 義久会長が射殺された事態が、
内の看板にまで波及する可能性も想定したのだ。
ヤクザ社会に生ける者で報道など信ずる者など誰も居ない。
この時点では先述した疑念払拭の確認も付いていなかった。
そして携帯から引退した代行が私を宥める様に指示したのだ。
大体、こんな感じだっただろう。

私:●●です。
  聴かれましたか?道仁のですが。

代行:(声を押し殺す様に)何か有ったのか?俺は“何も”聴いてないぞ。

私:●●は触れてないと思いますが、今から新宿に向かいます。

代行:いや、こっちは●●と●●がいるから来なくていい。
    解かった事が有ったら連絡するから、お前はもう“寝てろ”。
    それから、新宿はガセが多いから、一々付き合ったらやってられんぞ。

私は代行の言葉を「コソコソしたら“本当”に疑われるから、
静かにしてろ」と独善的に解釈したのだ。
そして代行の注意に従い、“自宅待機”で情報収集を始めている。
続け様に同じ看板の知人にも連絡を入れている。
だが、知人は内の看板“にも”掛けられた疑惑を全く知らなかった様だった。
結局、内の看板に掛けられた疑惑を教えてくれた人物に説明を求めたが、
やはり情報元が情報元で有る以上、
ガセと即断するには“時期尚早”な理由も有ったのだ。
今に想えば、何だか私と知人数人だけが
“不明瞭”な情報に踊らされている様な感覚も有った。
今は某機構の親父さんにも“挨拶”が利くが、
当時は“安全性”の高い情報入手先は知人数人しか居なかったのだ。
だが、某機構の連中も流石に抗争時には口が堅く成る。
しかし他所看板同士の抗争では、更に“挨拶”して何とか成った事も有った。





大仲義久会長射殺事件に話を戻す。
代紋頭が的取りされた事態はヤクザ史上最大の本抗争、山一抗争時に
四代目山口組、竹中 正久組長が“暗殺”されて以来の大事だった。
そして私は最早、この九州戦争が和解交渉では決着が付かない程の
歴史的本抗争に成る事も予見したのだ。
又、人と云う生物が孕む闘争本能へ、
何か得も知れない寂しさを感じた事も憶えている。
私は看板外しだが、それでも看板の威光で仕事を打っているのだから、
看板には自ずと恩を感じてしまう。
“代紋”と云う恐れ大きい物では無く、
“看板”と言える程に心身の一部と化している感も有る。
微力なのは解かり切っているが、
看板と家紋を強くしたいと云う想いだって当然だ。
法的な意味で、この業界には家紋外しにしか打てない、
出来ない仕事が沢山有る。
強さの“解釈”も其々だろうが、その想いは何処の代紋も同じ筈だ。
その為に政界や経済など、
様々な分野での“競争”が起こるのも必然だろう。
強い代紋がヤクザ社会の主導権を握り、
弱い代紋は政治的賭け引きを強いられる。
ヤクザは自身の代紋を強くする為、
常にを掛けて代紋を磨いて来たのだ。
三代目道仁会はその象徴たる代紋頭を的取りされたのだ。
その恚激心はあの当時の私でも想像に難くなかった。
九州ヤクザの筋の通し方を想えば尚更だ。
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