00992
書:斉嘉 光政(当時)




断:私は18年余り前に一切の薬物類を断っています。
 
 



1988年7月頃。
私が中学三年の頃、仲間達の間でSEX PISTOLSと云う
イギリスのバンドが流行った事が有った。
発端は仲間内の兄がSEX PISTOLSの
コピーバンドを始めた事に有ったらしい。
そして当時の私もご多分に漏れず、
友人にSEX PISTOLSを聴かせて貰った。
同時に“PUNK”と云う音像に“激しく速い”と云う、
漠然とした想像も抱いていたのだ。
だが、初めて聴いたSEX PISTOLSに、特に感じる物は何も無かった。
その音も、それまでに聴き慣れた音の速度と大差は無く、
それで居てBEATLESの様な“気取り”を感じたのも憶えている。
因みに当時の私が聴き好んで居たのは、
THE STREAT SLIDERSと云う日本のROCKバンドだった。
だが、今に想えばこの時、SEX PISTOLSに期待した源泉は“想像”では無く、
意識下から目醒めつつ有った“渇望”だったかも知れない。
因みに私の“音楽的”ルーツは幼い頃に見たガンダムなど、
テレビマンガや映画などのバックミュージックだ。
渇望の源泉もそちらの方に有った様に想える。
だが、この頃は保護と自立の狭間で迷い、憤ると云う反抗期に有ってか、
頭がテンパるROCK的な音を渇望していた。
その渇望の深淵は、既にSEX PISTOLSの猥褻振りなど、
気にも止まらない程までに深まっていたのだろう。
意識の裡で、少年の残像が囁いた様な気がした。
   あれは唯のロックバンドだったろう?
  俺が聴きたかったのは、あんなんじゃない。
  スライダーズもショボくれた、“年増”みたいで嫌気が差してた頃だった。
  聴きたかったのは、“誰よりも”速く、誰よりも遠くまで駆け抜ける様な音だった。
  何か、得体の知れない音を、得体の知れない“感覚”が求めていた。
  そんな感覚が有ったな。
そして中学が夏休みに入った頃、友人から他のPUNKバンドと黙される、
幾つかのバンドも聴かせて貰った。
そしてその中に、その渇望を更に駆き立てる音と出会ったのだ。
堕偕した焦燥の中で、唯一点だけを目指して駆け抜ける速度感、
当時の私の環境を彷彿とさせる、色彩の無い荒涼とした緊迫感も有った。
それがLAUGHIN NOSEのmeat marketと云う音源だった。
そしてその中で流れていた“B-29の贈り物”と云う曲へ、
特に強い感度を抱いたのだ。


LAUGHIN' NOSE - B29の贈り物

あの瞬間が、“音として”のハードコア・パンクに
出会った瞬間だったのかも知れない。
そしてこの頃、私も自身を“パンクス”と意識する様に成っていた。
少年の残像が囁いた様な気がした。
  ラフィンは良かったけどな、遅い曲が邪魔だったんだよな。
  全曲、あんな曲やるバンドがいないかってな。
以降、得体の知れない渇望に取り憑かれた私は、
独自に雑誌などで他のPUNKバンドを探す様に成っていた。
そして時期から見れば、この年の9月頃だっただろう。
友人の部屋で未だ発刊されていたアングラ雑誌、
宝島誌の広告に目を止めていた。
その広告欄には日本最高の“スピード・パンク”バンド、
LIP CREAMと記述されていた。
今では“伝説”と化しているLIP CREAM ONLY発売の広告だった。
あの一目見ただけで異様な雰囲気を抱かせる、
メンバー写真にも“反応”する何かが有った。
だが、当時の私はLIP CREAMをメジャーバンドだと誤解していたのだ。
インディーと云う物は知らなかった。
そしてこの頃より、当ての無いLIP CREAM発掘紀行を開始している。
その渦中でTHE STALINにも出会った。
カタログZ、365、泥棒と云う曲は強い感度を抱かせたが、
私に取り憑いた渇望は、未だ満足する事は無かった。





1988年11月。
ついにその時が来たのだ。
近隣の群馬県高崎市には、新星堂と云う大きな“レコード屋”が有った。
THE STALINのベスト盤カセットを手に入れたのもその店だ。
そして何時もの様に当ても無くCD欄を探していた。
だが、ふとした目先の加減から、“インディーズ・コーナー”と云う
レコード欄を見付けたのだ。
気付くとそのレコード欄を血の気を走らせながら、貪る様に漁っていた。
そして気付くと、一枚のレコードを手に取っていた、、
大蛸に絡め取られた地球の絵画、その両側を挟み込む危機と云う血濡れ字、
裏面に記述されていた数え切れぬ程の曲名、
その殆どが漢字で占められた異質な光景、
だが、私は宝島誌の広告に載っていたLIP CREAMと、
レコード絵画に記されたLIP CREAMが、
同一のバンドを示唆するとは想えなかったのだ。
だが、私に取り憑いた渇望源泉が
その迷いを瞬時に確信へと変えたのだろう。
そして家に戻ると“90分テープ”を調達してステレオにそのレコードを置いた。
その瞬間、“意識の目”は部屋全体の壁が瞬時に粉々に崩壊する様を観た。
次の瞬間には血色の宇宙空間の様な世界を光走していた。
その光速下の中で鋭い巨大隕石が、全方向から飛来して来る。
当時は生き別れと成っていた実父が、便所の扉に
何度も出刃包丁を突き刺す姿も一瞬だが、“観えた”のも憶えている。
音の“気配”に従いながら、音“その物”は聴いて無い様な感覚も有った。
そして音が消え去ると“意識の目”は、血濡れの夕刻世界を映し出していた。
だが、その光景は初めて“観た”光景では無い。
そして暫くは放心状態と成り、漠然と天を見詰めていたのを憶えている。
何れにせよ、かつて感じた事の無い程の“意識の戦慄”だった。
一方でLIP CREAMのレコードを買った“金”は、
私の偏差値が初めて40を超えた事に“感動”した、義父からの小遣い銭だった。
学校へ行っても、友人達と保健室の女先生と“じゃれたり”、
他所の中学へ“試合”に行ったりだった。
教室など初恋の女の子に会う以外には、行く目的すら見出せなかったのだ。
同時にこの頃から、それまでの友人が何処か疎ましく成って来ていた。
最早、生きる世界が違う様にさえ想えたのだ。
そして必然的に部屋で音源を聴く時間も増えて行った。





一方でLIP CREAMを発端とする“11月革命”を経た私は、
新星堂のレコード欄へ通う日々に多大なる“目的意識”を抱いていた。
既に兄弟から古いギターを貰った事も有り、
ハードコア・パンクの世界へ“進学”する事も決まっていたのだ。
印象的だったのは、ギターを握って二ヶ月程で“何気なく”出来た音に、
当時は聴いた事も無い程の漆黒観が有った事だ。
単弦で弾いてるだけだったが、この7年後に触れる事に成る、
BLACK METALのBURZUMが醸し出す、悲痛でいて
毒棘をも感じさせる“様な”音だった。
少なからず、80年代の歌謡曲に有った音の“節”も生きていた様に想える。
この“節”が生きていないと、ハードコア・パンクも
情感が“乖離”した傑物に成ってしまう。
80年代のハードコア・パンク、そしてLIP CREAMやDEATH SIDEなど、
本物のハードコアパンクの曲には、この節が見事に生きている曲が多い。
音が“歌っている”と云う表現を用いれば解かり易いだろう。
又、新星堂のレコード探索では他にTHE EXECUTEやDEADLESS MUSS、
更にアングラ雑誌のインディー欄で知った
NIGHTMAREの1st“シングルアルバム”など、
幾つかのハードコア・パンクバンドにも出会っている。

NIGHTMARE

因みにTHE EXECUTEやDEADLESS MUSSのレコードを選んだのは、
ジャケット裏の曲数の“多さ”が、
ハードコア・パンクと確信させたからに他成らない。
LIP CREAMのレコードも約40分で18曲入りだ。
又、DEADLESS MUSSのレコードは45回転だが、
私は約数ヶ月間に渡って33回転で聴いていた。
45回転ではボーカルの声が幼過ぎる様に聴こえたのだ。
あの図らずして生み出された“ダウン・チューニング”の醸し出す圧殺感、
そしてあの荒廃した漆黒世界は、
後にハードコア・パンクと共に戦慄を憶えた、
SWEDISH DEATH METALや
DOOM METALとの出会いだったのかも知れない。
そしてハードコア・パンクの探索活動は更に拡大して行く事に成る。
先述のアングラ雑誌で有る、宝島誌のSELFISHレコード広告より、
S.O.B、GAUZE、CHAOS U.Kとも“通販”で出会っている。
だが、“日本最高速”とも謳われたS.O.Bには、
LIP CREAM程の戦慄は感じなかった。
少年の渇望は速度だけでは無い、
何か得体の知れない“本能”が目覚める、
血濡れの夕刻世界を渇望したのだろう。
一方でCHAOS U.Kは、私が始めて聴いた
“外国”のHARDCORE PUNKでも有る。
当時の私の感覚では、HARDCORE PUNKは“ハードコア・パンク”だったのだ。
そしてこの頃に、私も“ハードコア・パンクス”を意識する様に成っている。





中学三年も三学期公判に入っていた。
私は初恋の女の子との離別が近付いている事実に、
耐え難い程の寂想感を抱いていた。
既に年が明けた1月19日頃には、
推薦入学で私立高校入学も決まっていた。
因みにその“受験儀式”の朝は、
S.O.Bの“シングル・アルバム”を聴いてその試験場へ向かっている。
だが、彼女は公立高校を受験すると私に告げていた。
彼女との関係も交際と云った物では無く、
今に想えば“特別な”友達同士と云った関係だった。
因みに私と彼女は中学で共に一、二を争う程に
異性から人気が有った“らしい”。
確かにその実感“は”有った。
だが、厳しい家庭で育ちつつ、校則にも真面目に従う彼女が
何故、“チンピラ少年”だった私と特別な友達同士に成っていたのか?
その意味を知るのは、後に起こる高校二年の経験を経るしか無かった。
そしてその意味を察せない当時の私は、日増しに強まってゆく
寂想感に翻弄されるだけだった。
だが、そんな気の抜けた私を奮い立たせたのは、
やはりハードコア・パンクだったのだ。
そしてこの頃に成ると、新宿レコード街に在った
U.Kエジソンやウッドストックなど、
国内外の“アングラ音楽”を扱う店にも通い始めていた。
既にハードコア・パンクを本格的に扱うDOLL誌にも触れていた。
気の抜けた寂想世界を、常に渇望して止まない血濡れの夕刻世界で塗り潰す。
その手段をレコード探索や曲作りに見出していたのだろう。
其処で真っ先に手に入れたのが、
“世界最高速”と謳われていたNAPALM DEATHのCD盤だった。
そしてこのNAPALM DEATHに、再び強い戦慄感を憶えている。


NAPALM DEATH:evolved as one

音の速度はそれ程では無かったが、後半の2ndが醸し出す、
灼熱の冷極世界は、“人”が産み堕した存在とは想えぬ程の戦慄を残した。
他にこの頃に手に入れた音源は、G.B.HやMISFITS、ROSE ROSEなど、
DOLL誌でその“存在”を知った物が殆どだった。
曲作りの方は、ドラムに魅力を感じ始めていたからか、
不思議と疎かに成っていたのを憶えている。
結局、この年の3月16日に、私は彼女に想いを“残して”中学を卒業した。
そしてその翌日には、義父から貰った“慰め”の卒業祝いで、
再び新宿レコード街へ向かっている。
洞察力に長けた義父は、何かを察していたのだろう。
この時に手に入れたのは、“究極”のTHRASH METALと謳われていた、
SLAYERのrein in bloodやKREATOR、TANKARDなどの音源だった。
だが、私を包んでいた寂想感は、彼等の音から色彩を堕偕させていた。





1989年4月8日頃。
私は群馬県某市に有る私立高校に推薦入学した。
その私立高校は男女共学を謳っていたが、
何故か教室に女子生徒は居なかった。
県内でも名の知れた“チンピラ養成校”と云う事も有ってか、
男子棟と女子棟に別けられていたのだ。
想定される“不慮の妊娠”を避ける為だったのかも知れない。
その事実を前に入学2日目で、本気で中退し様かと考えた程だった。
高校に入学したのも高卒資格を得る為で、
それ以外は女生徒と“遊ぶ”のが入学の目的だった。
少年の残像が囁いた様な気がした。
   (大学へ)進学する連中は、埼玉の(男女同教室の)別校舎で、
  俺らは群馬の(本)校舎で男、女に分けられてたろう?
  あれは俺ら“男”も、グレた“女”も動物扱いした証拠だ。
  動物園に“入園”したんじゃねんだから、馬鹿にするな!ってな。
だが、異性棟へは男女生徒共に行き来する自由は残されていた。
然し上級生の女生徒は唯の“年増”にしか見えなかったのだ。
グレた女生徒と云うより、ケバい“女”も多かった。
中学に戻りたく想ったのを憶えている。
中学時代の仲間は金髪にパーマを掛け、「出掛けてる」者が多かったが、
女生徒は不良に成り切れない、可愛い子が多かった。
「ヤンキー」と云う俗称も私が中学二年の頃に自然発生した物だろう。
そして確か入学後のゴールデンウィークだったと想うが、
私は再び新宿レコード街に赴いている。
因みに当時、新宿レコード街で世話に成った店は、
U.Kエジソンを始め、VINIL JAPAN、HEAVY METAL専門店のDISKLANDなどだった。
この時に手に入れたのはGUDON、THE RUSTLER、臨終懺悔、
BRAIN DEATHなどのシングル・アルバムの他に、
イギリスのDOCTOR&THE CRIPPENS、
アメリカのM.D.Cのライブ盤も入手し、“グローバル”に富んでいた。
当然、両バンドともレコード店に行くまでは全く知らないバンドだった。
選んだ理由も“曲数の多さ”と、UKハードコア・コーナー、
USハードコア・コーナーに収められていたからだろう。
其処にはハードコアパンクと、
HARDCORE PUNKが自然と“共存”する部分も有った。
因みに“ハードコアパンク”の方はDOLL誌や、
SELFISHレコードの“オマケ文章”で知った物が殆どだった憶えが有る。
同時期にOUTOの“正直者は馬鹿をみる”も良く見掛けたが、
私はOUTOがハードコアパンクバンドとは知らずに“敬遠”していた。
BOREDOMSの“二の舞”はゴメンだったのだろう。
そして以降、毎月後半に成ると必ず新宿レコード街へ通う習慣が付いていた。
CHAOTIC DISCHORD、NO FOR AN ANSWER、HAYWIREなど曲数の多さや、
“何時の間にか”好みと成っていた、U.Kハードコアと云う解説だけで、
オリジナルに富む優れた音源に出会えたのが、
80年代の終焉たる1989年の気風だったのだろう。
同時にW革ジャンを着て、メーカー不明の
ブーツを履く様に成ったのもこの頃の事だった。





そして高校一年の秋、少年は再び戦慄感に満ちたバンドと出会った。
それがイギリスのDISCHARGE、hee nothingのレコードだった。
DISCHARGEはハードコアパンクの始祖と“される”が、
その音はそれまでに聴いて来たハードコアパンクとは、
明らかに“異質”な感覚を抱かせたのだ。
あの緊迫感に満ちた死の気配“だけ”を放つ音像世界が、
私を憑き動かす渇望と共鳴したのかも知れない。
今の“立場”なら良く解かるが、
あの無機質ですら有る死の気配は本物だ。
少なくとも私が感じた本物の殺気は、何処か無機質でいて冷徹な物だ。
当時の私が作る音も、あの死の気配から多大なる影響が有ったと想っている。
因みに私のハードコア・パンクとはへの挑戦、
一言で言えば生存と云う一点に行き着いている。
曲ではGISMのFIRE、DISCHARGEのMEANWHILE、
LIP CREAMの罪が真っ先に想い浮かぶ。
あの命をるか?られるか?の様な戦場感が無ければ、
ハードコア・パンクの“演奏形態”を用いた唯のROCKでしか無い。
だがそんなバンドでも、好感を抱くバンドには星の数ほど出会った。
逆に言えば、ハードコア・パンクには、
ジャンル“特有”の情念に囚われない、
“意識の情念”を具現化し易い部分が有る。
演奏技術を必要とする音は、技術が身に付くに従い、
何時かは“表現の為の技術”と“技術の為の表現”に翻弄され兼ねない。
そして意識の情念が、技術的に表現された“物”が生まれ易い様に想える。
だが、演奏技術を必要としなければ、
“表現の為の技術”など初めから無いのだから、
自然と“生”の情念が表現され易いのだ。
コードなど知らなければ、
先ずは“鳴らしたい”音色が鳴る弦、フレッドを押さえる事に成る。
すると“何処からか”重ねて鳴らしたい音色も聴こえて来る。
そして結果的に“未知のコード”が生まれ、
誰も聴いた事の無い、情感旋律が生まれる事にも繋がる。
私はその「何処からか」 聴こえて来る音こそ、
人の潜在意識が導く、その人自身の音で有ると云うのが私の実感だ。
“同じ”ハードコア・パンクで括られ様とも、
F.V.KとGISMの情念は完全無比に他成らない。
少年の残像が囁いた様な気がした。
   ハードコアは“理屈”じゃない。
そしてその後もDOOM、EXTREME NOISE TERROR、NAÜSEAなど、
様々な“HARDCORE PUNK”のレコードも手にしている。
中学時代の友人を避け、独りで居る時間も長く成っていた時期だった。
部屋に居る時もギターを握っているか、
レコードを聴いているかの何れかだった。
当然、何でも追求しないと気の済まない、
“レコード・オタク的”な気風も有ったのかも知れない。




1990年7月。
高校二年に進級した私に、重大なる転機が訪れ様としていた。
私は放課後の駅で、初恋の女の子と再会した。
以前も何度か会ったが、その時は軽く言葉を交わす程度だった。
だが、その日は彼女から帰り道を誘われたのだ。
彼女は以前をも凌駕する程の眩い恋光で、私を照らし出していた。
だが、彼女は社交的で有り、他の男子生徒と
帰路を共にする事も珍しく無かった様だ。
そして私もその一人だろうと、軽く受け流そうとした“筈”だった。
少年の残像が囁いた様な気がした。
   何だか妙に機嫌が良かっただろう?
  俺を軽く見ている様な余裕も有った。
  だが、何かが何時ものアイツとは違っていた。
   それで俺も(勝手に)乗せられたんだろうな。
彼女への想いも何処かで忘れ掛けていた積もりだった。
だが、帰路の中で覗かせる彼女の眩しさに、
その想いが再び高まるのを感じていた。
そして数日後、ついに私は彼女と本格的に交際する事を決意したのだ。
そして震える手で彼女の自宅に電話を掛けている。
“勝算”は六割程度だった様に想う。
だが、電話口に出た彼女の反応は私を蒼白させた。
少年の残像が、囁いた様な気がした。
  何だか(彼女は)驚いた様な反応だったが、
  いきなり“バカじゃないの?”だからな。
  そん時は“負けたな”って思ったよな。
そして軽く言葉を交わして一旦は電話を切っている。
だが、一分もしない内に、今度は彼女の方から電話が掛かって来たのだ。
少年の残像が囁いた様な気がした。
  あの時だけは本当に(頭の)線切れてな、、
   俺は中学の頃から、アイツの(自分の)為に女は作らなかったんだ。
  アイツは俺と付き合うって言ったさ。
  だがな、軽く50人は女(からの交際)を断って来た俺にだぞ?
  それで大変な事に成った奴(下級女生徒)もいた。
  そんな俺に向かって“別に”(付き合っても)いいよ、は無いだろう?
  それで(頭の)線切れてな、もう、(お前なんか)いいって、、
歪んだ正“義”感と自尊心に駆られた私は
気付いた時、受話器越しの彼女に向かって、
お前なんか死んじまえ!!と怒鳴っていた。
そして電話を叩き付けて一時間後くらいだったろう。
彼女の父親から抗議の電話が掛かって来ていた。
それを聴いた義父は、私に無言で鉄拳制裁を下したのだ。
そして再び彼女の親から連絡が来るまで、
正座で義父と共に朝を待つ事を強いられている。
そして翌朝の陽が昇る頃に、再び彼女の父親から
無事を知らせる連絡が入った。
此処で何が有ったのかは想像に任せるが、
こうして私の初恋は終焉を遂げている。
だが、恋の終焉を遂げたのは、私だけでは無かったのだ。
私は直後の夏休みで、彼女の親友から信じ難い事実を告げられたのだ。
彼女があの様な行動に出たのは、
私の暴言から来るショックが要因だと想っていた。
だが、実際は違っていた。
品性も有り、聡明だった彼女が何故、チンピラ少年と
特別な友達と成っていたのか?
親友の女性は露骨な嫌悪感を漂わせながら、その理由を教えてくれた。
初恋の彼女が、中学二年の頃から恋心を寄せていたのは私だったのだ。
そんな私の暴言に耐え切れずに、あの様な行動に出たのだと
彼女の親友から叱責されている。
彼女は私の言葉を待っていたのだと云う。
少年の残像が疼く様に囁いた様な気がした。
   ああそうさ。
  俺はあの日ほど人の心を呪った日は無い。
  自分や人が何を想っているかなんて、
  結局、誰にも解かりやしないのさ。
  愛だ、何だ、言ってもな、情ってヤツは、
   自分の気付かぬ内に誰かに向いて、
  “勝手に”情ってヤツだけが人を想っているだけなのさ。
  例え、それが解かってても、口には出来ない。
  人への想いってヤツも強ければ強い程、
  返って自分を縛る呪いにも成り得るって事だ。
  それはアイツも同じだった筈だ。
だが、今はあの結果を私自身のチッポケな
“自尊心”が招いた結果だと想っている。
しかし結局、私はこの教訓から何も学んで居なかった。
そしてこの日を境に約5年間に渡り、私は気の抜けたフヌケと化していた。
そして高校へ行く“意味”を失くした私は、
この夏休み明けに高校を自主退学している。
結局、彼女もこの約二ヵ月後に高校を自主退学していた。
同時に私の自然と人を遠ける癖が、更に強く成って行った様に想える。
進んで友人を作る事もなく、一人で居る時間も更に増えて行った。
だが、此処で生きる導標を私に与えたのは、やはりハードコア・パンクだった。
自ずと、自身の支えをハードコア・パンクに見出していた事も有ったのだろう。
そしてついにハードコア・パンクバンドのメンバー募集を、
この直後にDOLL誌へ載せている。
だが、北関東の片田舎にハードコア・パンク好きなど居ないで有ろうと、
私がそれ程の期待感を抱く事は無かった。





1990年11月~翌1月頃。
だが、それは完全に私の偏見でしか無かったのだ。
この頃、DOLL誌を見たハードコア・パンクのギターから葉書が来たのだ。
そして直ぐに群馬県に在住していた彼と会っている。
因みにこの時に私が着ていた服装は
ダブル部分と肩に鋲を打った鋲ジャンだった。
腹横の部分にはDISORDERと白ペイントも施して有った。
下はボロの迷彩ズボンに、高校入学直後に
“原宿”で買ったブーツと云う物だ。
少年の残像が囁いた様な気がした。
   まあ、かっこなんて適当に(他のメンバーに)鋲ジャンでも着せて、
  (パンク風に)合わせて貰えばって思ってたんだよな。
  だがな、アイツは初めからモヒカンで、
  鋲ジャンも背中全面で渋いモンだった。
  着熟しからして違っていた。
  何だか、俺の方が(ボロくて)恥ずかしく成ってな。
だが、彼は服装だけで無く、“手馴れ”独特の不良らしいオーラも放っていた。
性格も気さくで有り、私の気が抜けたパンク“っぽい”振る舞いにも、
何処か付き合う様な、懐の深さも兼ね備えていた様に想える。
それで居て街中の雑踏に向かい、
行き成り大声でI LIKE COLAの様な“叫び”を真似ると云う、“キテる”部分も有った。
だが、一番驚いたのは彼から聴いた群馬のハードコア・パンク話だ。
既に群馬県には少なくとも8バンド程度の
本格的なハードコア・パンクバンドが活動していたのだ。
想えば群馬県はBOØWY、BUCK-TICKの出身地で有り、
バンドが盛んに活動している県地でも有ったのだ。
某超大物ハードコア・パンクバンドのメンバー2人の出身地でも有る。
県庁所在地の前橋市には前橋ラタンと云う、
関東では名の通ったライブハウスも有った。
そして1985年にはGHOUL、MOBS、LAST BOMBが、
1988年頃にはSYSTEMATIC DEATHがツアーに来ている。

THE PISS
THE PISS

又、1984年~1987年頃までは、THE PISSと云う、
地元群馬の本格的なハードコアパンクバンドも活動していた。
全国的には“マニアック”なバンドだったが、音と舞台は
当時活動していた並みのハードコアパンクバンドなど凌駕していた。
私も極悪ツアービデオで見て驚いたが、
後にバンドに加入するベースの人からも“噂”を聴いた事が有った。
一方で彼と組んだバンドでは、私がドラムを叩く事に成る。
音は彼の曲が7割、私の曲が3割程度だったろう。
彼の曲はEXTREME NOISE TERRORとGAUZEを“消化”した様な音で有り、
私の持ち込んだ曲は、日本のACIDや
MACROFARGEを“真似た”様な音だった。





1991年2月中旬頃。
私はこの日、初めて群馬のハードコア・パンクに触れた。
ライブ場所は前橋ラタンがハードコア・パンク“出入り禁止”に成っていた為、
群馬県伊勢崎市のライブハウスで決行された。
舞台に昇るバンドも全て群馬県在住のハードコア・パンクバンドで有り、
客も地元のハードコア・パンクスだったのだ。
ライブの企画は●IGHT IT OUTだった。
そして彼とライブハウスに入る頃には、既にGILLMOREと云う、
群馬県在住のハードコア・パンクバンドが速奏していた。
他に舞台に昇っていたのは憶えてる限りで、
●IOXIN’S、BLOCK BUSTER、●OOMS DAYなどだった。
今の私の“立場”も有り、縁の強かったバンドや人物は伏字にする。
音の傾向としては2ビートのノイズコアか、
後の90年代中盤頃のFAST COREと呼ばれる音に近いバンドが多かっただろう。
リズムの速度が極端に変わり続ける音だ。
今に想えば、当時としては斬新な音を出すバンドが多かった様にも想える。


DISCHORD:over defiance/cold heart (1991)

だが、GILLMOREの曲が終わり、次の曲が始まったその瞬間だった。
突然、ライブハウス内で速奏に合わせるかの様に“乱闘”が勃発したのだ。
刺激に駆られた私も挑戦する様に、その乱闘の輪に突撃している。
今では“モッシュ”とも云われる、ハードコア・パンク独特の乗り方だ。
だが、群馬県はサイコビリーも盛んで有り、その影響も有ったのかも知れない。
その乗り方も地元のハードコア・パンクスから“パンチ合戦”と呼ばれていた。
その名が黙す通り、隣の者に“突っ込む”時は、
殆どの者が拳を鉄拳に定めていたのだ。
顔面は狙わないと云う暗黙のルールは有ったが、
殆ど大人数での殴り合いだった。
その“感触”も不思議と胸が躍る様な感覚が有ったのを憶えている。
少年の残像が囁いた様な気がした。
   テレビでサイコビリーの乗り方は見た事が有ったけど、
  あれをハードコアの音でやるとはな。
  けどな、あれはどう見てもハードコアの乗り方だろう?
  ハードコアの音に喧嘩合戦で、異様に興奮したよな。
だが、鉄拳が他のハードコア・パンクスの顔面に炸裂しても、
喧嘩に成った事など一度も見た事が無かった。
“上州ハードコア”と名乗っていた群馬県のハードコア・パンクスは、
温厚且つ人の良い者が多く、喧嘩に成る様な空気すら無かった。
稀に“クサ”を吸う程度の者が居る程度で、
薬物に依存する者など居なかった事も有ったのかも知れない。
だが、ライブの“痛さ”では、私の知る限りで日本一だっただろう。
そしてライブが終わると先述の彼から多くの知人を紹介されている。
皆初めてだと云うのに、何処か気が抜けた私にも人当たり良く接してくれた。
又、その時に驚いたのは鋲ジャンの鋲を、
ジャケット“全面”に打ち込んでいた者が少なく無かった事だろう。

life
大阪のクラスト・パンクス。

そして私も彼等を“真似”る様に、鋲ジャンの鋲を全面に打ち込む事に成る。
因みに群馬ハードコア・パンクスが着ていた全面鋲ジャンは、
静岡県在住だったINNOCENTSのドラム、TEM氏の影響が有ったらしい。
1987年にリリースされたオムニバス、CORRUPTIONに●OOMS DAYが
静岡のDEADLESS MUSS、SO WHATと共に
参加していた経緯も有ったのかも知れない。
当時はTHE RUSTLER、SO WHAT、INNOCENTS、HELL DRIVERなど、
静岡のハードコア・パンクバンドも頻繁に群馬に来ていた。
有る意味で上州ハードコア・パンクと、
静岡ハードコア・パンクは“兄弟義分”に有ったのだ。





1991年2月28日(22日?)。
ハードコア・パンクの聖地と“される”イギリスからDISCHARGEが初来日した。
舞台は川崎クラブチッタで決行される。
又、その前座として当時、私が最も“影響”を受けていた、
DEATH SIDEの“ライブ”も予定されていた。
そして川崎クラブチッタに入ると、先に来ていた
群馬ハードコア・パンクス達とも合流している。
同時に“見憶え”の有る、大勢のハードコア・パンクスも結集していた。
少年の残像が囁いた様な気がした。
   あれは便所に入った時だったな。
  何かの反動で俺が便所の電気消しちゃってな。
  電気点けると、DEATH SIDEのベースの人がオラッ!ってな。
  でも、笑いながら、俺達と話してくれてな。
有る意味でこの頃、見憶えの有る大物ハードコア・パンクバンドのメンバーは、
少年の“アイドル”でも有ったのだ。
反面で歌謡曲を聴く者は“ミーハー野郎”と切り捨てていた。
他にもLIP CREAMのJHA JHA氏とPILL氏、OUTOのBUTCHER氏、
ドラムは憶えていないが、GAUZEの全メンバーも来ていた様だった。
そして私も子供の様な眼差しで、大物ハードコアバンドのメンバーに、
次々と握手を求めて行ったのだ。
GAUZEのモモリン氏は、そんな子供染みた私の握手をも受けてくれた。
だが、群馬のハードコアパンクス数人と共に、
元OUTO、BUTTERFLYのbutcher氏に握手を求めた際には、
明らかな嫌悪感を覗かせていた。
butcher氏も“1人の客”としてDISCHARGEを“体験”しに来ていた筈だ。
其処を訳の解からない、ハードコア・パンクス達から、
握手を求められては、流石に“迷惑”だったのだろう。
だが、少年の独善的な“期待”を軽く受け流した人もいた。
それが、“例の姿”から直ぐに解かったGAUZEのsin氏だった。
そして私は“一方的に”握手を交わすと、
何気なく群馬へツアーに来る様に促したのだ。
その時の会話も憶えている。

私:俺のバンドにも(もう)25歳の人がいますよ。

SIN氏:青い、青い、俺なんか50(歳)までは行けるぞ。
   (オムニバス、OUTSIDER記載の年齢に照らせば、
   実際に2015年以前に達成している。)

私:今度、群馬に来ませんか?
  皆、(自分が)楽しみにしてますよ。
SIN氏:群馬にって、、お前らが来いよ。
    テープ聴いて良かったら消毒に出してやるから。

だがその瞬間、クラブチッタの待合場所の奥から、複数の俗声が聴こえた。

複数の俗声:ソイツはブティック(の仕事?)で忙しいから東京からは出ないぞ!
         期待して裏切られるのはお前だぞ!ハッハッハッハッ、、

私にもsin氏から、妙な違和感を感じたのを憶えている。
因みに私の亡き義父は、叔父と共に初代稲川会某名門一門で、
若衆修行を積んだ過去が有る。
引退した三代目稲川会某有力一門の傘下組長とも関係が続いていた。
義父が存命の頃は群馬県内の稲川会某一門の看板持ち、
看板を外した知人が良く遊びに来ていたのだ。
そんな経緯も有ってか、義父は人の心を見抜く術に長けていた様に想える。
私も良く「人の心が知りたければ、(言葉では無く)
仕草や口振りから見抜け」と云う様な事を言われた物だ。
そして私はsin氏の反応を、嘘誤魔化しと見做している。
そしてその場から私は無言で立ち去った。
“勝手に”裏切られた様な気分にも浸っていた。
だが、人には其々が背負う都合も有るだろう。
基本的に私は“音さえ”良ければ身分や人柄は気に成らない。
坊主だろうが極道だろうが、重要なのは音だけだ。
少年の残像が囁いた様な気がした。
   でもな、ハードコア“は”仕事なんかで、
  碌な活動も出来ないでは、終わりなんだよ。
  俺は8年GAUZEを続けて来たとか、
  (SELFISHのオマケ文章で)偉そうな事言ってたけどな、
  ツアーも“出来ません”では終わってるだろ?
  リップのピルさんなんか、、
だがその直後、当時の私が最も“心酔”していたドラム叩きの人に遭遇したのだ。
写真で見るよりも何処か、聡明でいて
物静かな雰囲気を醸し出していたのも憶えている。
そして私は御多分に漏れず、その憧れの人に握手を求めたのだ。
憧れの人は、私と群馬のハードコア・パンクス達に、
物静かな口調で返して来た。

PILL氏:俺はそんな身分じゃないから。
      お前らも(バンドで)力付けたら俺らと張り合おうな。

それは既に解散していた元LIP CREAMのpill氏だった。
pill氏はまるで、何かを“約束”したかの様な面持ちで、
その場から去って行ったのだ。
至って自然な振る舞いだった。
そしてそのpill氏が残した言葉は、
私の気の抜けた気概を、一瞬で燃え上がらせたのだ。
「あの人は本物だった!」そんな“甘え”もその時には有ったのだろう。
あの時のpill氏から感じた気風は、今でも鮮明に憶えている。
あれは今の私が生ける世界でも、“性根”の入った本物で通せる気風だ。
クラブチッタでの開演待ちは僅か1時間程度だったと想うが、
その新鮮さも相俟って様々な経験を経た実感が有った。





そしてついにクラブチッタの舞台で、
憧れの人達が演奏の準備を初めていた。
前座だが、“ライブ”を決行するDEATH SIDEだった。
同時に生まれて始めて見る、本物のハードコア・パンクバンドでも有った。
音作りでギターを合わせるchelsea氏の音は、
重油を染み込ませた“砂塵”の様な、乾いた重圧感が有った。
既にその音だけで少年は絶慄したのだ。
そしてメンバーが舞台上に揃うと、馴染みの有る“音色”が響いていた。
LIFE IS A CHAIN OF GAMEのイントロだった。
だが、ライブは叫びのISHIYA氏の“調子”が
悪そうだった位で余り憶えていないが、
曲間で何かを絶えず怒鳴っていたのは憶えている。
私がDEATH SIDEに望む心境が投影されたのか、
一瞬、「DISCHARGEが何だ!」と怒鳴った気もしたが定かで無い。
一つだけ言えるのは唯、意識が極北に至った様な、
何処までも心地良い充実感だけをDEATH SIDEは残して行った。
そして“同様に”本命として期待感を抱いた、
DISCHARGEのライブ“も”決行される。
始めの曲はwarningだったが、他に私の知る曲は余り無かった。
当時はhe nothingとwhy、そして謎のブートしか聴いた事が無かったのだ。
fight backなどのシングル・アルバムは未だ聴いた事は無かった。
印象としてはDISCHARGEの曲を演奏する
“別のバンド”と云う印象だっただろう。
其処にはレコードで聴ける、あの死の気配も皆無だった。
だが、当時のDEATH SIDEに触れる事が出来たのは
幸運だったと想っている。
“愛しの”LIP CREAMは既に解散していた。
又、DEATH SIDEはこの1991年夏のBURNING SPIRITS TOURで、
鉄アレイ、BASTARDと共に初めて群馬県高崎市に来ている。
私の中ではその時に“観た”DEATH SIDEが、最後に観たDEATH SIDEだった。
2ndアルバムに懸ける意気で、
DEATH SIDEはやる事はやり尽くしていた様にも想える。
何れにせよ、DEATH SIDEは私が初めて触れた、
本物のハードコア・パンクバンドで有った事だけは間違いない。
以降、私が上州ハードコアと袂を分かつ
1993年までDEATH SIDE、BASTARD、
鉄アレイがBURNING SPIRITS TOURで群馬に来ていた。
そしてDISCHARGE初来日後も、約2ヶ月毎にG.B.H、
CHAOS U.K、THE EXPLOITEDも来日している。
当然、G.B.H以外の全てのハードコア・パンクバンドも“体験”した。
因みにCHAOS U.Kの舞台では、ダイビングを制止された警備員を、
DEATH SIDEのISHIYA氏が“投げ飛ばす”と云う一幕も有った。

ISHIYA

だが、直ぐに警備員数人がISHIYA氏を取り押さえたのだ。
当然、それを見た客のハードコア・パンクスは、
警備員に対して激しい怒号を飛ばしていた。
中にはハードコア・パンクスに殴られて流血している警備員もいた程だ。
以降、警備員は“撤退”して舞台上は
ハードコア・パンクスの無法地帯と化していた。
そしてダイビングの大豪雨が吹き荒んだのは語るまでも無いだろう。
この約2ヵ月後のTHE EXPLITED初来日でもその“体制”は維持されていた。





1991年4月下旬。
私とバンドのギターは、高円寺20000Vの階段に鎮座していた。
そしてこの日、私は心中で一つの決意を抱く事に成る。
ライブ企画はD.O.N D.O.N主催の
BEST RUN FASTだった様に想えるが解からない。
舞台に昇ったバンドは憶えに有る限りで、NIGHTMARE、CRÜCK、
IDORA、D.O.N D.O.N、RISE FROM THE DEAD、
GRAVE NEW WORLDなどだった。
因みに最初に舞台へ上ったIDORAの演奏中に、
私と彼は“パンチ合戦”を初めている。
だが曲が終わった間で横に居たハードコア・パンクの“オッサン”から
耳元で囁かれたのだ。
少年の残像が囁いた様な気がした。
   暴れる時は手を開いてくれ、
  東京でその暴れ方だと喧嘩に成るから、
  みたいな事、言ってたな。
   確かに(IDORAで)暴れてるのは俺とアイツだけだったからな。
  何だか妙に“みんな”静かだったから余計に(暴れたく成って)な。
  俺もあの頃は“甘ちゃん”だったから、
  ハードコアの奴はみんな“友達”だと思ってたから。
そして“友達”の言葉に促された私は、友達の“頼み”を聞いている。
だが、何番目かは忘れたが、NIGHTMAREが
舞台に昇った時はまるで違っていた。
その時だけは、舞台前のハードコア・パンクスが
入れ替わった様な気がした程だ。
そして演奏が始まると私は一瞬だが、
ドラムのOSAMOON氏を見詰めつつ、金縛りに成っていた。
OSAMOON氏は太鼓打ちの反動に身を任せる様に、
暴れながらドラムを叩いていたのだ。
同時に舞台前では、ハードコア・パンクス達が
それまでに無い“突撃合戦”を初めていた。
その勢いも当時の上州ハードコア並みだっただろう。
更にアンプ後ろで“シャドー・ドラマー”と化している友達や
舞台上で“身を震わせる”友達も大勢いて、
メンバーが良く見えない程の“狂鳴”振りだった。
同時にスネアとバスドラが同音量に定められ、
ハットの刻みと“共鳴”したOSAMOON氏の疾走は、
何処までも一直線な“鼓動感”を与えていた。
1stアルバム、1stシングル・アルバムで聴ける“あの”鼓動感だ。
当時のosamoon氏のドラムには、CONCRETE SOXとのSPLITで聴ける、
“崩し”は未だ入っていなかった。
又、1992年以降とは違い、この頃のNIGHTMAREは
音色が“良く”聴こえたのだ。
演奏された曲は殆ど知らなかったが、通俗的な皮肉感を抱かせる
音色も共鳴する物が有った。
知らない二曲が特に意識に焼き付いた事も憶えている。
それが1stアルバムに収められているANNIHILATIONとDICKだった。

 
NIGHTMARE:annihilation

当然、直後にその1stアルバムを手に入れた事は語るまでも無い。
そしてNIGHTMAREに依る“反対の世界”へ突き抜ける疾走感の中で、
私は心の“眼”を漲らせていたのだ。
少年の残像が囁いた様な気がした。
   ああ、俺もこのステージで“ドラム”叩くんだなってな。
  あの時に、もう“決まって”いた。
然しその“決意”が直ぐに実行に移される事は無かった。
だが、NIGHTMAREの“ライブ”が終わっても、
その“余波”は次のRISE FROM THE DEADにまで続いていた様に想える。
又、2000Vでのライブ後には、
東京ハードコア・パンクスの片鱗も垣間見ている。
電車も終電と成り、適当に高円寺駅前で
野宿でもしようかとウロ付いていた時だった。
ふと知らない“友達”が私とギターを部屋に誘ってくれたのだ。
部屋に付くと、其処には卒業した中学の便所を想わせる“匂い”が漂っていた。
そして一同鎮座してバンドや東京の事情話を始めると、
友達は当然の様に、“シンナー入り”の空き缶を食わえていた。
私も中学の頃に便所でシンナー入りの“フクロ”を食わえた事が有った。
だが、20代と思えるハードコア・パンクスが
シンナーを食わえている姿は印象的だった。
少年の残像が囁いた様な気がした。
   ハードコアで“アイス”とか“アシッド”とかは聴いた事が有ったが、
  ハードコアでシンナーって“妙に”ハマってたんだよな。
  あの人が無言でな、ハードコアならシンナーだ!って言ってたよな?
今に想えば、東京の友達が観せた姿に、
後の私が辿る“因果”な後見を抱いて成らない。
そして彼から様々な大物ハードコア・パンクバンドの“秘話”を聴かされると、
陽が昇る頃に部屋を後にしている。
同時に東京ハードコア・パンクスには意外な印象も抱いていた。
私とギターの友達は全面鋲ジャン、ボロの迷彩ズボンにスウェーデンポーチと云う姿だったが、
他にそんな姿をした友達など2人程度しか居なかったのだ。
舞台に昇ったバンドも、其々が“好む”服装で疾走していた。
METALの様な長髪や、鋲ジャンを着ない“クラスト風”も多かっただろう。
そしてその気風に感化された私も“流される”形で、
出来損ないのスパイクと全面鋲ジャンから、
長髪にクラスト風の格好に変わって行った。
だがこの直後には、東京ハードコア・パンクで“珍事件”も起こっている。
D.O.N D.O.NのYOSHIKAWA氏が、DOLL誌の取材で“自身の感じた”
有りの儘の東京ハードコア・パンクの姿を語ったのだ。
  (東京のハードコアは)殆ど腐ってるね。
  (不純な動機で)上に行きたいとか見え見えでね。
そしてその記事が載った直後、私は高円寺のBOYで有る物を見ている。
当時、BOYの店内には小さな“伝言板”が掲げられ、
其処にはこう書いて有ったのだ。
    商業主義バンド、ディスチャージ!
  死ね!吉川!ハードコアは腐ってなんかいない。
だが、私はそんな風潮を懐疑的に見たのを憶えている。
遡る90年頃から、日本に於けるハードコア・パンク音源の
“リリース頻度”が明らかに増えていた。
“CDアルバム”をリリースする無名ハードコア・パンクバンドも急増していただろう。
だが、私にはその多くの無名バンドに、アルバムを出すには
早過ぎる様な未熟さを感じたのだ。
その“理由”も或る程度は見当が付いていた。
DOLL誌にはライブ広告も載っていたが、
そんな無名バンドの多くがDEATH SIDEや鉄アレイ、
そしてD.O.N D.O.Nと対バンを組んでいたのだ。
少年の残像が囁いた様な気がした。
  要するに実力はともかく、連中に“挨拶”すれば
  CDの一枚でも出せんだろ。
   ASSFORTなんかは(後に)デカいバンドに成ったが、
  (当時は)奴等なんかその象徴だった。
  あの(1st.CD)音源、一回聴いて捨て様かと思ったくらいだ。
  セルフィシュも落ちたなってな。
私にはYOSHIKAWA氏の言葉が、
そんな彼等へ向けられた言葉の様に想えたのだ。
だが、ASSFORTのライブ“は”当時が一番凄かったと聴いた事は有った。
そして更に不可解な出来事も起きていた。
DOLL誌に載ったYOSHIKAWA氏の取材内容が、
東京ハードコア・パンクに波乱を起こし、
YOSHIKAWA氏が東京ハードコア・パンクから“追放”されたと云うのだ。
その追放手段も或る程度は“想像”が付いたが、
その具体的手段は後述で触れる。
後に“友達”から、追放された“友達バンド”の話を聴かされたのだ。
ハードコア・パンクの様な情けは一切無いが、
まるで私の生ける世界の“絶縁・東京所払い”の様な仕打ちだ。
共にその裁量は、力の有る者の“器量”に委ねられているのだからタチが悪い。
業界では派閥対立の煽りを食らい、濡れ衣で破門食らう者も少なく無い。





1991年秋頃。
私とギターの彼が中心と成ったバンドは、
1991年6月頃に初ライブを遂げている。
だが、当時の私は次第にDEATH SIDEや
NIGHTMAREに傾倒する様に成っていた。
ギターは新たに入ったメンバーに変わっていたが、
その“ノイズギター”も私の理想とは程遠く成っていたのだ。
他のメンバーとの間で意見対立も絶えなかった。
結局それが元で、バンドは8月頃に“一旦は”解散している。
そして直ぐに私を抜いて“再編結成”された。
当時は“姑息な真似”と切り捨てたが、
彼等の最大限の配慮でも有ったのだろう。
同時に事実上“クビ”に成った私にも、
ドラムの音に転換期が訪れていた。
それ以前はGUDONの様な速度で、
スネアとハットを“交互”に叩くと云うドラムだった。
だが、DEATH SIDEやNIGHTMAREに触発された事も有り、
彼等の様な速度でハットの“二発打ち”を習得していたのだ。
有る意味でOSAMOON氏の“分身”を目指していた部分も有っただろう。
一方で丁度その頃、上州ハードコアを代表する
●OOMS DAYからドラムが脱退していたのだ。
だが、●OOMS DAYは90年代中盤のFAST COREの様な音で有り、
起伏が激しく、ドラムに技術も必要とされていた。
だがその頃、高崎市で決行されたライブ後に、
●OOMS DAYの音が“昔に戻る”と云う話を聴いたのだ。
87年頃の●OOMS DAYはDEATH SIDEの様な速度で有り、
曲も後の“ジャパニーズ・ハードコア”に通じる部分も有った。
そして私は直ぐに叫びの人にその話を確認している。
そしてその晩の内に●OOMS DAYへ加入する事が決まった。
だが、初スタジオで合わせた曲は“当時”の物だった。
結局、私のドラムの未熟さや、“フヌケ”染みた優柔不断さが仇と成り、
又しても他のメンバーから孤立して行った。
数回のライブには参加したが、最早“時間の問題”だった。
因みに翌1992年5月頃には、栃木県宇都宮市の
“宇都宮ハードコア”へ遠足に行っている。
そして此処で、バンド“としては”無名だったが、
強い印象を抱かせるバンドと出会ったのだ。
元万引チョコレイトの叫び、KEIZOU氏が中心と成って
結成された名も無いバンドだった。

 
CASSANDRA:track1~3

その音も広島のKATHABUTAやME♀SSを彷彿とさせる“世界感”も有り、
“二発刻み”のドラムも文句無しの疾走感だった。
そして彼等“も”上京を目指していた。
少年の残像が囁いた様な気がした。
   あのバンドには“嫉妬”したな。
  地元に篭ってれば“それで良い”では無く、
  目指す先はハードコアの“頂点だ!”と音が語っていたからな。
無茶なドラムを叩いていたとは云え、
私の目指す先“も”ハードコア・パンクの頂点だった。
上京も既に“あの日”に決意していたのだろう。
結局、私はこの年の8月頃に●OOMS DAYをクビに成っている。
何れにせよ、私が●OOMS DAYを去るの事は決まっていたが、
いざクビにされると、やはり寂しい想いが有ったのを憶えている。
だが、今に想えば彼等も良く“耐えて”くれたと想っている。
中心メンバーだった叫びの●島氏やギターの人も、
私の未熟なドラムに多大なる不満を募らせていたのも解かっていた。
単純にドラムが少なかった状況も有ったのだろうが、
あの“状態”で良く一年持ったと想える程だ。





1992年秋頃。
以降、私の上京へ向けた本格的な活動が始まった。
ドラムの“パッド”も買い、一日一時間は“練習”していただろう。
曲の方向性も或る程度は定まっていた。
この頃に私が“形にした”音は、DEATH SIDEが
更に暗黒感を増した様な方向性“も”有った。
世界観や情感“だけ”なら、WARHEAD JUNKやCRUCIFIED JUNK、
ACIDの和的な旋律や00年代に登場する
アメリカの初期TRAGEDYにも“通じる”世界観も有った。
同時にこの頃に成ると、ハードコア・パンクの“音の面だけ”に
意識が注がれる様に成っていた。
そして自然と私からハードコア・パンクスと云う
“仮面”も剥がれ落ちていたのだろう。
同時にハードコア・パンクスと云う“他者同義”を忌嫌する様に成っていた。
少年の残像が囁いた様な気がした。
   俺は俺で有って、それ以外の何者でも無いって事だ。
  ハードコアの事なら、ハードコアって“名前”の奴に聴け!ってな。
  それにあの頃は“長髪”だったから、
  何で俺が“パンクス”なんだ!って思ったりもしたしな。
一方でこの頃、私は度々東京ハードコア・パンクにも一人で顔を出している。
打ち上げに潜り込んだ事も有った。
そして其処で、私は東京ハードコア・パンクの“転換期”を観たのだ。
当時はNUKEY PIKESを中心とした“ネオ・ハードコア”や、
NEWYORK CITY HARDCOREの影響も有ったのか、
東京ハードコア・パンクからハードコア・パンク“らしさ”が
失われつつ有る様な気風が流れていた。
私が憶えてるだけで、“友達”もこんな様な言葉を溢していたのだ。

某中堅バンドのベース:何がネオ・ハードコアだよな。
               あんな物は“ポップス”だろう?
               (“初期”NUKEY PIKESは嫌いでは無かった)
某超大物バンドのベース:お前、元気ないぞ。
               本物に成りたいんなら東京に来いよ。
               東京は(薬とかで)面白いぞ!
某中堅バンドの叫び:GAUZE?あんな爺さん、唯のサラリーマンだろ?
              偉そうに踏ん反り返ってるだけで、
              ライブなんか、碌にやってねえしな
                                  (当時は私も同感だった)
忘れた:85年だよ。
     ハードコアはあれじゃなかったら嘘だろ?
     ハードコアだぞ?
打ち上げで話した“オッサン”:ハードコアは、みんな鋲ジャンを着てた
                                             頃の方が面白かったな。
                   横山君とか、マサミ君とかマジで凄かったぞ!
                   (少し“だけ”羨ましかった)

何れにせよ、誰もが当時のハードコア・パンクに焦燥感を抱いてる様だった。
だが同時にこの頃、私は有る“気配”にも気付いていた。
そんな中の93年春頃にはPILE DRIVER、GESHPENST、
鉄アレイがツアーで群馬に来ている。
その“気配”はGESHPENSTの“面々”や、PILE DRIVERの叫びが
鋲ジャン姿で赤い“モヒカン”に変わっていた事から“も”感じていた。
だが、そんな気配の中で、私も上京へ向けて着々と“力”を付けていた。
そして秋頃にはDOLL誌にメンバー募集を載せつつ、
格好もブーツも捨て、当時の東京ハードコアパンク必至品、ゴムサンダルを履き始めた。




1993年12月23日頃。
ついに私はハードコア・パンクの聖地、高円寺に上京した。
だがこの印象は、私が抱いた良し悪しを含めた
高円寺ハードコア・パンクへの印象だ。
安息の聖地など有る訳が無い事くらいは、この頃からも解かり切っていた。
有るとしたら、それは冥土だろう。
肝心のバンド・メンバーとは、28日頃には初顔合わせしている。
DOLL誌でメンバーが決まっていたのか、
上京直後に決まったのかは憶えていない。
だが、私を中心にバンドが結成された訳では無かった。
ギターとベースの友達が結成したバンドに加入すると云う形だ。
音の方向性もNIGHTMAREやMAD CONFLUXを彷彿とさせ、
私の理想を叶え得る方向性“では”有った。
だがこの時、私は高円寺ハードコア・パンクが
明らかに変貌していたのも実感している。
上京した翌日の24日には20000Vでライブも有った。
其処で舞台に昇っていたASSFORTの叫びも、
全面鋲ジャン姿に変わっていた。
同時に“静岡ハードコア”を彷彿とさせる曼荼羅模様のモヒカンも目立った。
多くの友達が、何時の間にかハードコア・パンクの“格好”に戻っていたのだ。
年が明けた1月4日頃には阿鼻叫喚GIGにも行ったが、
殆ど作為的なバイオレンス・ハードコアの“リバイバル・パーティー”の様だった。
少年の残像が囁いた様な気がした。
  あれは原点回帰ってヤツだろう?
   でもな、昔の“写真”で見たのとは何かが違っていた。
  何だか、誰かの格好を“研究”したかの様な不自然さも有った。
私はその時に見た気風を、東京ハードコア・パンクが孕む
“迷い”への答えの様に感じたのだ。
徹底的なる原点回帰だ。
だが、多くの文化が衰退する時、
その寸前に原点回帰が図られる事も珍しくは無いだろう。
人は目指す栄華を見失った時、その代換として“過去”の栄華に縋り付く。
だが、“再現”された栄華に人々が気付いた時、
それは形骸化した虚構で有る事を悟るのだろう。
そしてその文化は崩壊を遂げ、その気風に従う様に、
その欠片で新たな文化が再び創造されて来た様に想える。
だが、そんな気風が“本当に”高円寺に有ったとしても、
私には余り関係なかった。
自身の有るべき姿は、自身の意識だけが知る物だ。
それが見出せない者の為にパンクスやメタルと云った、
“緊急退避的”な仮面が用意されるのだろう。
それは迷いに一筋の指針を与える、“神”掛かりな必然媒体とも言える。
“私が”ハードコア・パンクと出会った頃は、そんな感覚も有った。
当然、EXTINCT GOVENMENTのRICKY氏の様に、
パンクとは別の次元で、強い自我を確立した人が居た事も知っている。
だからこそ、逆にパンクに“拘っても”、その自我を保つ事が出来たのだろう。
だが、そんな人を私は余り知らない。
一方で先述の通り、バンドの友達から
東京ハードコア・パンクの“追放手段”も聴かされている。
経緯は忘れたが、友人のバンドが追放を告げられたのだと云う。
そして追放手段として、GESHPENSTやACCOMPLICEなどの
“鉄アレイ親衛隊”が、彼等の舞台を荒らしたのだと云う。
そして彼等は舞台荒らしに“嫌気”が差したのか、
バンドを解散させて、東京から去って行ったと聴いている。
要するに荒らしに勝てば追放処分も“無効”に出来ると云う事だ。
中には追放を恐れて、鉄アレイ親衛隊に
“媚び売り”で発言権を得た者までいた程だ。
一方で私の生ける世界では“永久破門、絶縁処分”が追放に値するが、
その“道”を通したければ、六代目山口組に“移籍”する道は残されている。
業界“にも”、看板同士の見えない“上下関係”が有る。
当然の様に発言権を得る為、
力の有る者に“媚び売り”で通す連中も腐る程いる。
共に“チンピラ”が下地に成っている部分“も”有るからか、
東京ハードコア・パンクと“東京ヤクザ業界”は必然的な共通点も有る。
違うと言えば“金”で力が買える点と、時に死体が出る事くらいだ。





1994年3月中旬頃、雨の日。
私には高円寺20000Vや新宿ANTIKNOCKの舞台に昇ると云う“夢”が有った。
そんな中で、バンドの初ライブが決まったのだ。
舞台は新宿ANTIKNOCKだ。
少年の残像が囁いた様な気がした。
   俺は無名バンドは、もっと聴いた事も無いハコで
  ライブやってんのかと思ってた。
  それが、行き成りアンティノックだろ?
  あれには流石に(自分に)呆れたな。
だが、本質的には“本物”のハードコア・パンクバンドで
ANTIKNOCKの舞台に昇るのが“夢”だったのだろう。
又、“何時の間にか”●NUCKLEにバンド名が決まっていた当のバンドは、
5曲程度しか曲が無かったが、対バンの殆どは中堅バンドだったのだ。
これはベースが東京ハードコア・パンクで、
それ成りに知られた顔だった事も有った。
舞台に昇れなく成ったバンドの、“穴埋め”参加だった憶えも有る。
その対バンも憶えてる限りで、ASSFORT、IDORA、GIL、RUSTLER、
URBAN TERROR、BLAZEなど殆どが、
音源で聴いた事の有るハードコア・パンクバンドだったのだ。
他の無名バンドは実力は有ったが、
BLOODTHIRSTY BLUCE LEEくらいだっただろう。
自分達の舞台が終わった後は、
ライブを“見に来た”様な感覚が有ったのも憶えている。
特に当時の私に取ってRUSTLERは、
“ドラム面で”SO WHATと並ぶ程の影響を受けていたバンドだったのだ。


SO WHAT:playing fantasy / judgement 1991 
この音源が当時のライブの音を最も忠実に再現している。

この頃の私のドラムは、あの圧殺感に“崩し”を入れた様な叩き方だった。
崩しの方は“当時の”NIGHTMARE、OSAMOON氏の影響も強かった様に想う。
あの叩き方だと、“気分”に合わせてスネアやハット、
シンバルやバスドラの強弱も“自由”に入れる事が出来たのだ。
オカズも殆ど“即興”だ。
“打ち込みドラム”の様な、綺麗に“ツカツカ”と叩くドラムなど
退屈でしか無かったのだ。
ドラムに波ねりが無ければ“音”の波ねりまで無くなってしまう。
“音源から”好感を持っていたドラムも、他に1987年頃のPILL氏や
ME♀SSのEIZI氏、MAD CONFLUXのドラムなど、
独特の崩しが入った人ばかりだった。
そしてその後もBLAZE、ASSFORT、MAX OVERHEAT、
FORCE SKELETOR、D.S.Bなどとバンドで舞台を共にする事に成る。
結成間もないバンドだったとは云え、
少なからずベースの“コネ”が物を言った部分も有ったのだろう。





だがその一方で、私に暗黒期が訪れ様としていた。
次第に私から、バンドに対する意気が冷めつつ有ったのだ。
音の方向性はNIGHTMAREやMAD CONFLUXを“匂わせる”物だったが、
当時の東京はそんな音のバンドで溢れ返っていたのだ。
少年の残像が囁いた様な気がした。
   “ジャパコア”って云うのも、そんなバンドが増えて来た頃に出て来ただろう?
  ジャパコアって言えば、ナイトメアや
  リップの“表面”をパクったバンドが、そう呼ばれてた感じも有った。
  だが、リップはジャパコアでも無ければ、リップ以外の何者でも無い。
  だから、俺“も”そんな(ジャパコア)バンドを
   “皮肉って”ジャパコアって呼んでたんだよな。
  そうじゃないバンドは単純に“ハードコア”と呼ばれてたしな。
“当時の”ジャパコアにはそんな意味合いが込められていた様に想う。
そして次第に、私の“育てる”音も
ジャパコアから掛け離れた傑物と成って行った。
その頃の音は、漆黒の世界で悲壮感を携えながら
唯、疾走する様な音だった様に想える。
だが、ジャパコア気風のバンドにそんな曲を持ち込めば、
方向性が分解した“乖離バンド”に成り下がるは必至だった。
そして次第に私は、彼等“の”バンドでドラムを叩く意味を見失って行った。





私には東京ハードコア・パンクで、
友人と“言える”友達は一人しか居なかった。
友人に成ろうと近付いて来る“友達”は大勢いた。
だが、私は心の何処かで彼等の存在を疎ましく想っていたのだ。
私のハードコア・パンクに懸ける歪んだ“自尊心”と、
当時の東京ハードコア・パンクに流れていた気風に、
懐疑心を募らせていた事も有ったのだろう。
心の中では常に友人を欲していたが、“何か”がそれを拒絶していた。
少年の残像が囁いた様な気がした。
   ハードコアの世界は音で“勝負”する世界だ。
  そんな世界で生きてんだから、敗者(と想い込んだ者)に礼儀など要らない。
  だがな、普通に(知らない友達に)話しかけたら、
  生意気だぞ、とか年は幾つ?とか聴いてくる“年増”が居ただろう?
   何で俺がそんな奴等に敬語なんか使わなくちゃいけねぇんだよ?
  退屈バンドの“オッサン”に敬語使うくらいなら、
  一人で遊んでた方がマシだ!なんて思ってたからな。
  東京は“上下関係”を気にする奴が多かったから、
  そんな物など無い(寛容さの有る)、
  千葉(ハードコア・パンク)に連れが出来たんだな。
バンドの叫びとベースが千葉在住だったからか、上京した当初から
東京に遊びに来る、千葉ハードコア・パンクスの方に友達が多かったのだ。

G-10

一方でその頃、ベースの友人だった千葉の●CUM BLAST、
GRASP、LIBERATEなど数バンドが、“札幌旅行”の計画を立てていた。
だが、急遽としてLIBERATEが札幌旅行に行けなく成ったのだ。
その“穴埋め”として出番が回って来たのが、私の“居た”バンドだった。
だが、直接的には関係ないが、
それが結果的に私のハードコア・パンク活動へ
重大な局面を齎す結果に繋がるのだ。





1994年9月某日。
札幌旅行が数日前に迫っていた。
そしてその時、東京では唯一の友人だった友達から、
千葉県某市へ遊びに来る様に誘われたのだ。
彼はハードコア・パンクの彼女から家を追い出された事も有り、
千葉の某中堅ハードコア・パンクバンドの借家に“潜伏”していた。
同時にその借家は、千葉や東京の
一部ハードコア・パンクスの“遊び場”だったのだ。
酒瓶に入った“怪しいネタ”も隠して有った。
借家に付くと暫くは雑談していた様に想える。
だが、そんな中で友達が何気なく酒瓶を持って来たのだ。
そして“芳ばしい”酒をティッシュに染み込ませると、
口元でティッシュ“に”呼吸していた。
それは有る“手口”で手に入れたと云う“トルエン”だった。
私も少し迷ったが結局、“久し振り”にトルエンを頂いた。
不思議と中学の頃に吸った“シンナー”とは
異質な心地良さが有ったのを憶えている。
だがその“心地良さ”が、私のハードコア・パンク活動を
終焉に導く結果に繋がるとは、この時は想像もしていなかった。
そして9月某日、私が居た“ジャパコア”バンドを含めた総勢30人以上が、
札幌に向けて日本列島を北上した。
道中で特に印象に残ったのは、青森県八戸市から、
北海道苫小牧に渡るフェリーで観た光景だった。
その時、乗員人数を誤魔化す為に“ジャンケン”で負けた私他数人が、
機材に“紛れる”形でフェリーに乗ったのだ。
だが残暑も有り、私は余りの暑さに“嫌気”が差す形で車外に脱出している。
夜9時に、フェリーが出航して20分程度を経た頃だったろう。
その時、フェリー最後尾の車両置き場から観た光景に私は圧倒されていた。
既に沿岸から30kmほど離れた航海上に有ったからか、
180度に渡って観える景色に全く光が無かったのだ。
微妙に茶色掛かった暗黒の世界だけが広がっていた。
観えるのはフェリー最後尾が上げている細い白波だけだった。
それは景色では無く、既に“心像世界”だったのだ。
続いて“脱出”した数人の友達と話を交わしても、
私の心は、かつて観た血濡れの夕刻世界に有ったのだろう。
文明の光から遠ざかった闇夜が、
見事に私の心像世界を“投影”させたのかも知れない。
あれは何処か、必然的でいて不思議な光景だった。
一方でこの約3ヵ月後の12月28日には、青森県“八戸沖”が震源とされる、
マグニチュード7.6の三陸はるか沖地震も発生していた。

三陸
1994年三陸はるか沖地震(八戸市内)。

フェリーが出航した八戸市で震度6を観測、
東北・北海道の太平洋沿岸に“津波警報”も発令されていた。
そして50cm程度の津波が、東北・北海道一帯で観測されたと有る。
地震の発生時刻も“午後9時19分”だった。
記憶が確かなら、私が血濡れの夕刻世界に“居た”時間帯に
大地震が発生した事に成る。
辿る札幌旅行約1ヵ月後の10月7日午後10時22分“にも”、
マグニチュード8.2の北海道東方沖地震“も”発生していた。
釧路、厚岸で震度6、八戸では震度4を観測、
東北地方太平洋沖地震が発生するまでは、
1952年十勝沖地震と並び、国内観測史上最大の巨大地震だった。
震源に近い択捉島や歯舞群島では、津波と揺れの被害に因り、
ロシア住人約1万人が、一時的に本土移住を余儀なくされた。
そして北海道・東北の“太平洋沿岸”全域に津波警報が発令され、
根室市で1m73cmの津波を観測したとされる。
震源から約1200km離れた高円寺でも2分程度に渡り、
“船に揺られる”様な長い揺れを感じたのを憶えている。
東京都千代田区では震度3を観測していた。
有る意味で、自然の猛威を縫う形で決行された札幌旅行だったが、
私も昔から災厄運だけは“悪い”様だ。
東北地方太平洋沖地震が発生した際も、
震度5強を観測した新宿区の事務所では無く、
久方ぶりに5弱だった埼玉県本庄市の自宅に詰めていた。
自宅の方は棚に立て掛けて有ったCDが一枚倒れた程度の被害だった。
だが、新宿区に建つ私の事務所兼別宅アパートの方は、
額縁類やデスクパソコンのモニターなど、多くが落ちたと報告を受けている。
翌日に戻ったが、窓ガラスにもヒビが入っていた。





札幌旅行の舞台は札幌カウンター・アクションで決行される。
対バンは、憶えの限りでTHE SLANG、WARSAW、BARRICADEなどだった。
同時に札幌ハードコア・パンクには何処か、
異国の様な情緒を抱いたのも憶えている。
舞台を観に来た札幌ハードコア・パンクスも
陽気な雰囲気の持ち主が多く、
不思議と上州ハードコア・パンクが依り、
アメリカ気風に成った様な印象も有った。
札幌市内に建つ友達のアパートも、
何処か異国文化が溶け合った様な外観だったのだ。
アイヌ文化の伝統が、自然と生きていたのかも知れない。
又、当時のカウンター・アクションは、
ライブハウスとバーが合体した構造で有り、
舞台が終焉すると、そのままカウンター・アクション内で
打ち上げと云うのも不思議だった。
私が居たバンドの舞台は、ドラム・ペダルが割れたりで散々だったが、
友達との“札幌旅行”はサッポロ・ビール工場見学など、
色々と楽しむ事が出来た。
だがこの時、私は“何か”を忘れ去っていた。
旅散気分に浮かれていたのか、私の心も無防備に成っていたのだろう。
同時に1週間ほどの札幌滞在だった事も有り、
私は長い時間に渡って友達達と過ごしたのだ。
その友達の温もりに包まれて過ごした時間が、
私からその“意味”を忘れさせたのだろう。
逆に言えば、忘れ掛けていた“感覚”が再び蘇ろうとしていたのだ。
又、東京へ帰る前夜には、札幌の友達の部屋で“お別れ会”が開かれている。
其処での私は、“何故か”過去に無い程の勢いで酒を食らっていた。
心の深淵で、“何か”を悟っていたのかも知れない。
そして何時の間に寝たのかは“記憶が無かった”が、
目覚めると其処は、日差しに照らされた室蘭フェリーターミナルだった。
何時の間にか夜が明け、機材車で約100km南下していた。
そして東北自動車道を南下して、関東が近くに連れて、
私は“何か”を感じ始めていた。
そして関東に入ったパーキングで千葉組、東京組に分かれる事に成ったが、
其処で私は絵も知れない“何か”を感じていたのだ。
頓て都内に到着すると友達も散々と成って行った。
気付くと、私も部屋のドアの前で立っていた。
だが、ドアの向こうの世界に、友達など一人も居なかった。
そして部屋に座り込んだ私は、其処で胸を圧し潰され、
身動きも取れない程の圧倒的な窮迫感に晒されたのだ。
その耐え難い窮迫感と共に感じた“何か”とは、
かつて感じた事の無い程の“孤独”だった。
唯、数時間前まで一緒にいた友達の姿が残像として“居る”だけだった。
一人で居続ければ一人に慣れる事は出来る。
だが、大勢の友達に包まれていた時間が、
新ためて人の温もりを私に教えたのだろう。
最早、その朝は何も出来ずに唯、寝る事しか出来なかった。
そして時間からすれば午後だが、
電話の呼び出し音が目覚まし時計と成った。
電話口に出たのは、十数時間ほど前まで
同じ時間を過ごしていた千葉の友達だった。
あの嬉しさだけは、今も鮮明に憶えている。
そして迷う事なく地下鉄に乗り、
先述した遊び場が有る千葉県某市の駅に到着した。
改札口には、十数時間ほど前に別れた“懐かしい”顔触れが揃っていた。
そして遊び場に到着すると、直ぐに“パーティー”が始まったのだろう。
同時にこの日から、一週間程度その遊び場に滞在する事と成る。





ふと気付くと、私は血塗れの螺旋部屋に鎮座していた。
部屋の概観は歪み、透かしの向こうは
広大なる血濡れの夕刻世界が広がっていた。
宙に瞬く“ブラウン管”はその世界に曼荼羅色彩をも与えていた。
私にはその世界が心身共に心地良かった。
中学の頃に二、三度吸った“シンナー”は唯、気持ち悪く成るだけだったが、
その“トルエン”は、私の意識に“革命”を齎す程の戦慄感を抱かせたのだ。
そして様々な“幻覚世界”を旅参した私は、
ドラエモンの“ポケット”を手に入れた様な超越感にも浸っていた。
だが、今に想えばその超越感は、私のハードコア・パンク活動が
崩壊してゆく“快滅感”だったのかも知れない。
そしてこの滞在中に何人かの新しい友達とも知り合っている。
特に千葉ハードコア・パンクを二分するバンドの友達には、
“同様”な体験もさせられた。
首都圏ではGUILLOTINE TERRORの“舞台”に匹敵する
高感度を抱かせたバンドでも有った。
初期ハードコア・パンクを彷彿とさせる“ヤバい”雰囲気の舞台も
圧倒的なオーラを放っていた。
だが、実際に言葉を交わしながら、同じ時間を過ごす彼は違っていた。
一角のハードコア・パンクで無い事は直ぐに解かったが、
舞台から降りた彼にあの“オーラ”は感じなかった。
其処に居るのは紛れも無い“友達”だったのだ。
別に初めての事では無かったが、
音源や舞台などで知った興味深いハードコア・パンクスも、
直に会って話せば皆、友達に成ってしまう。
“憧れ”のバンドは友達では無く、やはり憧れのバンドとして残した方が、
憧れのハードコア・パンクバンドとして生かす事が出来たのだろう。
他にも様々な出会いが有った。
そして約一週間が経ってワインの瓶にトルエンを分けると、
私は高円寺の部屋に戻っている。
だが、其処には孤独感など微塵も無かったのだ。
自分が“何の為に”高円寺に上京したかも忘れていたのだろう。
その興味対象も、ハードコア・パンクでは無くトルエンに変わっていた。
少年の残像が囁いた様な気がした。
   バンドの方は(他のメンバーと)音も合わないし、
  もう殆どやる気も無かった。
  ハードコアもLIPが解散、デスサイドも“アレ”だし、
  (自分の中では)ハードコアは終わってた。
  それで、“ネタ”食う事の方が面白く成っちゃったんだな。
  曲の方もハードコアとは関係ない方向に向かってた事も有ったしな。
だが、実際に終わってたのは私のバンド活動に他成らない。





そして11月頃だろうか?私は想いも拠らない局面に遭遇した。
トルエンが切れる度に千葉の遊び場に通っていたが、
ついに遊び場のトルエンも“切れて”しまったのだ。
そして御他分に漏れず、“新宿駅東口通い”が始まった。
だが、何処の売人を頼っても、唯の“シンナー”しか手に入らなかったのだ。
因みに新宿駅東口ロータリーは東京都内に本部を構える、
某某会某某某会某代目の島だが、
シンナーの売人は、同じ代紋の某某代目某某一家傘下や、
稼業違いの某代紋が島借りして撒いている。
そして“お隣さん”の知人から衝撃的な話を聴いたのだ。
当時、其処で売られていたシンナーはトルエン成分60%から、
良い物でも80%程度だったのだ。
当然、当時の私はそんな事など知らずに結局、
“シンナー”に頼るしか無かった。
そして“満足”出来ない私のシンナー“依存”は瞬く間に深まって行った。
結局、バンドの方もこの1994年11月頃に、
千葉のスタジオで録った音源を残して自然消滅している。

  
●NUCKLE:looking for glory

そしてその音源は後にGRASP、●OISON COLA、●CUM BLASTと共に、
このオムニバスとして音源化“されていた”。
だが、当時の私にはハードコア・パンクなど最早、興味対象外でしか無かった。
唯、トルエンに飢えた“鬼”と化していた。
又、1994年12月31日のBURNING SPIRITS ALL NIGHTでは、
先述したCASSANDRAのKEIZOU氏にも再会している。
既に彼等も“解散状態”で上京していたのだ。
そして其処で軽く雑談を交わしたKEIZOU氏から、
先見に満ちた興味深い言葉を頂戴している。

KEIZOU氏:シンナーなんかやってたら、碌な人間に成れないぞ。

そして今は東京都内に本部を構える某看板で、
代紋外し、家紋外しとして活動している。
刑法では準構成員扱いの関係者だそうだが、
正式な看板持ちの話も何度か来ている。
“仕事”は主に企業買収仲介・斡旋、そして投資、投機銘柄の“売り抜け”だ。
通常なら“有り得ない”取引関係を作るのが主たる仕事だろう。
その為に親会社の存亡に関わる外秘ネタを“抜いた”事も有った。
クラブの女の“色気”を利用して“ネタ”を引っ張る事も有る。
そしてそのネタと手配した株を買収屋に売り飛ばし、
買収締結の契約金2割を抜いた事も有った。
常に“ボロい”仕事を打つ為の絵図書きも欠かさない。
自分でも解かっている積もりだが、KEIZOU氏の言葉通り、
“碌な人間”に成れなかった様だ。
だが、今の私は“色々な意味で”、
かつて無かった程の充実した日々を送っている。
仕事に“就く”のは嫌いだったが、仕事を“打つ”のはやはり面白い。
何れにせよ、彼らも再び万引チョコレイトとして活動するに到ったが、
彼等に限らず、YOUTUBEなどで
当時の友達が大舞台で活動する様を知るのはやはり嬉しい。
私も自身の立場に一層の気概を懸け、“踏ん張らな行かん思っとる”。




1995年1月16日。
一方で生成不良や混ぜ物のシンナーは、その多くに鬱を齎す効用が有る。
私も1995年の年明け頃には最早、心身共にボロ切れと化していた。
その深刻さはシラフでも言語障害が出る程で有り、
コンビニ店に並ぶオロナミンCが、全て“赤まむしドリンク”に観えた事も有った。
だがその日、私はついに求めていた“トルエン”を手に入れたのだ。
その日も相変わらず、シンナー代を作る為に
極度に散らかった部屋から小銭を“発掘”していた。
この頃は“イタズラ”で金を作るのは最後の手段だった。
だがその時、ふと高円寺に上京した際に購入した
ガス・ストーブが目に入ったのだ。
そしてそのガス・ストーブを抱き絞め殺しながら、
私は質屋へ足取り軽やかに向かっている。
質屋で5000円と換金すると、自然と新宿に吸い寄せられて行った。
通常は新宿駅東口ロータリー東側、北側で売人を探がす事に成る。
だが、その日は“何故か”別の場所で売人を探していた。
そして其処で、今の私とは“馴染み姿”の
珍しい売人からシンナーを買ったのだ。
あれは売り子では無い、本物の“看板持ち”だろう。
そして直ぐに私は高円寺に戻り、“レコード屋”のBOYに入っている。
その時に“買った”のはアメリカのDISRUPT、1st“CD”だった。
部屋に戻ると、“錯乱”するかの様にビニール袋に“ティッシュ”を入れていた。
そしてDISRUPTの音源を鳴らして、ビニール袋を口元に吸い寄せたのだろう。
気付くと私は、“高速”で色彩気流が流れ込む“天空の城”の主と成っていた。
体も空中に浮いてるかの様な軽やかさが有った。
実際の部屋の概観など殆ど消えていただろう。
それは千葉の遊び場の“シンナー”など
遥かに凌駕する程の“トルエン”だったのだ。
意識に絶大なる“躁”を齎し、“ダウン”の来ない
幻覚覚醒剤と言っても良い程の効き目だった。
後にその売人から聴いたが、名乗ったのは内の一門の“家名”だった。
同時に密売場所の辺鄙な所に連れられた私は、
その“トルエン”の秘話も聴かされていた。
それは3Sとも呼ばれる、純度99.9パーセントの純トルエンだったのだ。
今は売人は出していない“筈”だが、
そんな物を必ず提供して来る“善良”な売人だった。
天空の城の“主”に取っても、それは実に喜ばしい結果だったのだろう。
そして意識が“スパーク”した私は、何時の間にか眠り堕ちていた。





1995年1月17日午前7時頃。
私は夢を観ていた。
夢の物語は憶えていない。
だが、私は聴いたのだ。
かわいそう、、と云う幼い女の子の様な声だった。
そして然り気無く目覚めた私の目から、“何故か”涙が流れていた。
枕の半分は涙を吸い込ませていた。
そして慣例的に何気無く、テレビのスイッチを入れたのだ。
NHKだった様な気もするが、スタジオには数人の解説者が座り、
何処か厳粛な空気さえ流れていた。
そして画面下側に、有る文字が刻まれていたのだ。
  西日本で地震、神戸で震度6
その朝は阪神・淡路大震災が発生した朝だった。
少年の残像が囁いた様な気がした。
  (空撮ヘリから)大阪の景色が映ってただろう?
  大阪にも地震が有るのか?震度5くらいかってな。
だが、次の瞬間だった。
私は眼下に広がる火炎の絨毯と、其処から天昇する
幾本もの暗黒の渦を見詰めていた。
数時間前のトルエンが効いていたのか、
その光景を直接、空を飛翔する様に傍観していたのだ。

阪神

ふと気付くと、敵対したと思い込んでいた
高円寺の友達が私の隣で鎮座していた。
彼はこの一ヶ月程前から良く遊びに来ていたのだ。
そして友達は私に指摘している。
   お前、泣いたのか?目に跡が付いてるぞ。
  お前、人が憎いんだろう?らしくないぜ。
友達の指摘は先の不可解な体験が、
“幻覚”では無かった事を示唆していた。
“シミ”の付いた枕も半年は使っていただろう。
気付くと友達は、私の横で焦茶色の“玉”が入った
フィルムを手に取っていた。
そして銀紙を丸めると先端を曲げ、
その先端に焦茶色の玉を入れていた。
そしてライターで火を付けると、
その“芳ばしい煙”を一煙も漏らさぬ様に吸い込んでいた。
だがその横で、私はブラウン管に釘付けと成っていた。
私は有る不可解な疑問に包まれていたのだ。
震度6を観測した神戸市、洲本市と同様に、
先述の三陸はるか沖地震や
北海道東方沖地震でも震度6を観測していた。
だが、目立つ被害は三陸はるか沖地震で、
パチンコ屋が一軒倒壊した程度だった。
あの時の神戸市の様な、壊滅的な被害は無かった。
当時は“トルエン漬け”の頭とは云え、
私にはその“違い”が解からなかった。
そして暫くすると、更に信じ難い情報が入って来ていた。
   未確認情報ですが、神戸市東灘区で阪神高速道路の高架橋部分が、
  幅約1kmに渡って、下を走る国道43号線上に落ちたと云う、
  信じ難い情報が入っています。
私もこの時までに日航ジャンボ機墜落事故や北海道南西沖地震など、
報道特別番組を何度か見た事が有った。
だが、“信じ難い情報”と云う解説は初めて聴いた様に想える。
同時にこの未確認情報が入って来た頃には、再び私も“キマって”いた。
そして阪神高速道路高架橋の映像が流れると、
横倒しに成った高架道路上で、“何故か”大渋滞が発生していた。
似た映像が今でもYOUTUBEで見れるが、
斜め約45度に傾いた高速道路上では、車など走れる状態では無い。
あれは間違い無く“幻覚”だろう。
始めはあの直下型大地震その物が“幻覚か?”と疑った程だ。
鉄道の高架橋が電車ごと斜めに圧し折れ、路上で電車が大破している光景、
二棟の高層マンションの一棟が、
もう一棟に持たれ掛かる様に傾いている光景、
そして宙を目指して巨大な漆黒煙が幾本も昇って行く光景は、
戦慄以外の何物でも無かった。
だが当時の私には、この惨劇観を何処かで待ち望んでいた部分も有った。
少年の残像が囁いた様な気がした。
   破滅への憧れってヤツだな。
   あの時点で(自分の中の)ハードコアは終わっていた。
  バンドもやる気なんて無かったしな。
  俺も(自分が)“終わった”と思ってた。
  だから、何もかもブッ壊して作り直す、
  そんな機会を待ってたんだろうな。
当然、終わっていたのは私のハードコア・パンク活動“だけ”に他成らない。
だが戦後以来、高度経済成長を遂げて
完成された様に“想える”日本の文明観が、
綺麗に崩壊してゆく瞬景を観たかったのも本当だろう。
その源泉は、私が幼少の頃に経験した
家庭崩壊からの再起に有った様に想える。
生物も窮地に立たされる度に、
その窮地に適応した“進化”を遂げて来たのだろう。
だが、その進化は決して生物に栄華を齎すとは限らない。
進化に行き詰まりや歪みが生じれば、自然と共食いを経ながら
生物は有るべき進化の道を本能的に創り出して来た様にも想える。
全ては摂理の流れに終始するのだろう。
私には第一次、第二次世界大戦が引き起こされた源泉も
其処に有ると想えるのだ。
航空兵力や通信技術が格段進歩を遂げた世界で、
人は“何か”を試したかったのだろうか?
或いは“何かが”人を試したのかも知れない。
何れにせよ、弱種は淘汰されて強種が進化の道を開くと云う、
強種選別闘争を経る事で、生物は進化を遂げ続けて来たのだろう。
その犠牲は進化の糧と成り、勝者のとして今も生き続けている。
戦後復興と共に進んだ文芸や音楽など、
有らゆる精神的文化に革新が齎された歴史も圧倒的だったと想える。
だが、その栄華も頓て慣例と成り、
今では形骸化に満ちた凡庸物に成り下がったと云うのも私の想いだ。
語り継がれる偉人も、今は過去の偉人に過ぎない。
先進国は確実に飽和的な閉塞状態に陥っている。
昨今ではエジプト動乱が齎され、
中東情勢も深刻な事態に到っている。
閉塞感に晒された世界で、新境地を求めるかの如く、
世界中の若年層も西の戦地へ旅立っている。
米新保守主義勢力の厳命とは云え、
日本も戦争を知らない政治世代に依って集団的自衛権が採決された。
飽和を消費させる国家の中で、多くの若者もそれを漠然的に望んでいる。
だが、それは本当に情報管理社会だけの賜物なのだろうか?
人の本能は、再び何かを望んでいるのかも知れない。
だが、その何かに到った時、人の本能はその至りを
進化の試練として受け止めるのだろうか?
少なくとも、その是非を決すのは人の“心”では無いのだろう。





阪神・淡路大震災も、当時の私には衝撃的だった。
だが、私に齎されたのは、意識の“狂幻”でしか無かったかも知れない。
そんな世界の“住人”だった私は神戸の惨劇観に触れる度に、
次第に“不可解な”恐怖心を抱いて行った。
その“効用”の原因は解っていたが、“謎の組織”が阪神・淡路大震災を起こし、
間もなく東京に巨大な本命を起こす様な憂いに駆られたのだ。
そして大地震の数日後、ついに私は“じしん、じしん、じしん”と云う、
オモチャの人形の様な声で“被害妄想幻聴”を聴いている。
そして堪らずに千葉の遊び場へ逃げ出したのだ。
破滅を待ち望む少年にしては、臆病な“珍事”だった。
だが、千葉の遊び場と言っても湾岸地帯に有り、
日本有数の“軟弱地盤”を誇る地域だ。
関東大震災で建物の倒壊被害を多く出した地域でも有ったのだ。
遊び場の平屋アパートも、取り壊しが決まっていた程の極めて古い物だった。
そんな所に軟弱地盤で増幅された震度6の地震が来れば、
平屋アパートなど一瞬で瓦礫の山と化して即死だっただろう。
一方で地盤の固い山手台地上の杉並区付近は、
地震の揺れで倒壊した建物は比較的少なかったとされる。
だが、燃え広がる大火災で、
翌々日には高円寺付近も殆どが焼け落ちたと云う。
黙って高円寺に居れば良かったのかは解からないが、
この珍事“も”潜在的トラウマに成ったのかも知れない。
そして私も大地震の性質が“俄か”に詳しく成った。
地震を知見するのは今も趣味の一つだが、
前に会長からも(地震)博士と呼ばれた事も有った。
高速の運転中には理事長補佐の先輩から
「博士!今のは(震度)幾つだ!」と携帯を飛ばされた事も有る。
因みに先述の三陸はるか沖地震や、北海道東方沖地震で観測した震度6と、
神戸市で観測した震度6は全くの別物だったのだ。
震度にはその一つの指針と成る計測震度と云う数値が有る。
三陸はるか沖地震や北海道東方沖地震で観測されたのは、
計測震度5.5~5.6だった。
これは今の震度5強に近い震度6弱と成る。
だが、神戸市中央区では計測震度6.4が観測されていた。
この計測震度が6.5に達すると震度7と成る。
神戸市中央区で観測された震度6は
極めて震度7に近い震度6強だったのだ。
更に軟弱地盤特有の揺れ幅約35cmに達する大きな横揺れも発生していた。
この時に阪神地区を襲った揺れは、
木造家屋が最も破壊され易い揺れ方でも有ったと云う。
地震学界ではこの揺れ方をキラーパルスと呼ぶ向きも有る。
然も震度6を観測した神戸海洋気象台付近は、
比較的被害が軽かったと云う。
その一方で震災の帯とも云われる地域に唯一、
残されていた須磨区高取駅観測点の地震波形は、熊本地震が発生するまで
世界観測史上最大の物理的破壊力が示唆される地震波形とされていた。
私の知識が正しければ、瞬間的に時速130km前後で、
地面が南側に25cm前後動いた瞬間が有った事が読み取れる。
計測震度が算出される地震計では無かったが、
加速度、最大速度などから換算すると計測震度6.5、震度7に相当するとも云われる。
何れにせよ、東北地方太平洋沖地震で観測した震度7、
計測震度6.6の20倍前後の物理的破壊力が有ったと云われる程だ。
そして被害状況から大阪市西淀川区、大正区、此花区、
豊中市、吹田市などでも、今の震度6強に相当する
大激震で有ったと推定されている。
だが、京都市に向けて震災の帯が走った方向から
約15度、南に反れた大阪市中央区の観測点は震度4だった。
どうも地震に触れると止まらなく成るが、
自然と云うのは永遠の謎に満ち、無尽蔵の好奇心を駆り立てるのだろう。





あの夢は今に至っても、未だ不思議に想えて成らない。
私が夢を観ていた時は阪神・淡路大震災が発生した事など知らなかったのだ。
当然、あのかわいそう、、と云う悲声が
大地震の犠牲者へ捧げられた悲声かは解からない。
一方で当時の私は、自分の不甲斐無さを常に他人の所為にする事で、
その自尊心を維持している部分も有った。
多様性を認めない社会人には、無差別的な憎しみさえ抱いていた。
そんな私に大地震の犠牲者へ捧げる悲しみなど有る訳が無いと想ったのだ。
私は実父と離別した8歳の頃から、一度も泣いた事は無かったのだ。
だがその反面、多様性を認めない社会人は、
管理社会の犠牲者とも想っていた。
犠牲者として受け入れる事は出来たのだ。
私には其処に、潜在的な“同情心”が有ったと想える。
又、複数の友達は僅かに揺れを感じたと言っていた。
実際に東京都千代田区で震度1を観測したと気象庁の記録に有る。
その揺れ方も先述の北海道東方沖地震と似た、
緩やかな長い揺れだったと云う。
マグニチュード8.2の北海道東方沖地震は、
東北地方太平洋沖地震の6分の1前後の規模に過ぎないが、
それでも関東大震災をも超える規模だった。
夢の中にいた私も、その揺れを感じながら
何かを予見した可能性は有るだろう。
その予見が、あの様な夢と成って表現された可能性は有る。
何れにせよ、あの夢の“性質”には、今に至っても違和感が残っている程だ。




1995年3月上旬頃。
私のハードコア・パンク活動に別の側面からも転換期が訪れ様としていた。
この頃、DOLL誌のレコード屋広告でBATHORY直系、
BLACK METALと釘付けられた音源に、
不思議と惹き付けられる感覚が有ったのだ。
先述した通り、私はハードコア・パンクと平行する形で、
DEATH METALなど、漆黒感に満ちた音にも触れて来た。
そんな中でノルウェーのEMPERORと云う
BLACK METALの音源を手に入れていた。
彼等の音像世界は、私の渇望世界と見事に共鳴したのだ。


XASTHUR:malignant prophecy (2007)

同時に幻覚世界の住人と化していた私に取って、
あの圧倒的な非日常世界に触れたのは、
有る意味で必然的な因果も有ったのだろう。
そしてこの頃を境に、触れる音も“魔力”を秘めたサタニックな音に“偏執”する事と成った。
BLACK METALの始祖とされるHELL HAMMERは勿論、
DARKTHRONE、BURZUM、BEHERIT.2ndなど、
一瞬でこの世から“精神の世”へ飛べる音を半ば、
“中毒”に成ったかの様に聴き漁っていた。
又、彼等の音はブラック・“メタル”と呼ばれていたが、
その殆どは当時に有りながら、MTRを高度に使い熟なして録音された音だったのだ。
85年頃のハードコア・パンク音源を彷彿させる、
中音域の出たアナログ感の有る“自然”な音像は、
私に新時代のハードコアを感じさせた程だった。





そしてそんな渦中の3月20日、少年の渇望を更に満たし得る、
不可解な出来事が勃発した。
その日は前日から、東京ハードコア・パンクの
“トルエン友達”が部屋に来ていた。
そして誰も見ていないテレビが不可解は“声”を発したのだ。
   東京消防庁に入った連絡によりますと、
  営団地下鉄、茅場町駅で複数の乗客が倒れ込み、咳き込んで、、
  確認した限りで霞ヶ関駅、中野坂上駅でも同様の、、
   先ほどの情報では毒ガスが発生したと有りましたが、
  東京消防庁によりますと、何者かが意図的に毒ガスを撒いた可能性が有り、、
   東京消防庁によりますと、毒ガスの成分からサリンが検出された、、
それは似非宗教団体、オウム真理教に依る
地下鉄サリン事件が発生した朝だった。
だがこの時は緩やかな幻覚世界から、私はその犠牲者を嘲笑っていた。
友達とこんな様な会話が有ったのも憶えている。

私:サリンだと?
友達:オウムじゃないのか?これ?雑誌で見た事が有るぞ。
     だけどな、、ネクタイ野郎、、死んだな、、
私:この世はな、遊んで生きたモンの勝ちなんだよ。
  、、霞ヶ関ってお偉いさんがいる所だろ?
  サリンか、、じっくり味わいな、、
  俺達は“牧場の家畜”じゃねんだからよ。

だが実際は、犠牲者の殆どが会社勤めの社会人だった。
使用されたのも生成不良のサリンだ。
生成不良のサリンが使用された理由は、警視庁に潜り込んでいた信者が、
真理教側へ捜査情報を漏らした事に端を発すと云われる。
オウム真理教側に漏れたのは、松本サリン事件を嫌疑とする、
大規模な家宅捜査が計画されていると云う物だった。
捜査を遅らせる為の破壊工作説も根強いが、
その信憑性は微妙に成ったと“聴いて”いる。
一方で警視庁側は意図的に捜査に遅延を生じさせ、
オウム真理教側が事件を起こすのを待っていたとも“聴いて”いる。
一方のオウム真理教側にも警察機関へ
意図的に情報を漏らす複数の幹部が居たのだ。
警視庁もサリン使用を未然に防げる功算を確信していたと云う。
そして被害の少ない別の破壊工作を決行させて
意図的に社会不安を作り出し、
それを早急に収束させる狙いが有ったとも聴いている。
要するに松本サリン事件で失墜した警察機関の捜査力を、
国民に再認識させるのが、その狙いだったのだろう。
だが結局、警視庁は地下鉄サリン事件を阻止出来なかった。
又、オウム真理教壊滅作戦の狙いには、
警察機関に警察官として潜り込んだ、信者の口止めも有ったと聴いている。
同僚が犯した失態の隠蔽工作だ。
同時にオウム真理教壊滅作戦には、
当時の五代目山口組直参“など”に依る、
大規模な覚醒剤密造の“大手柄”も約束されていたのだ。
1992年に施行された暴力団対策法で、
手柄の“株”が上がっていた背景も有った筈だ。
何れにせよ、有る意味でオウム真理教と警視庁は“共犯者”だった側面が有る。
今は引退した“天下り”からも、色々と話を聴いた。
又、事件直後にはオウム真理教の村井 秀男“最高幹部”を、
五代目山口組傘下組員が先手で口止めする一幕も有った。
だが、口止め班は他にも二班居たのだ。
は青山 吉伸と上祐 史浩だったとされるが、
両者共に当日、刺殺現場に来て居たのだ。
青山 吉伸は同様の口止めが疑われているが、
上祐 史浩の方は国松長官狙撃事件に関する口止めだったとされる。
だがその直後、“何故か”捜査が中止されたのだと云う。
国松長官狙撃事件の首謀者はほぼ割れているが、
立場上、此処では話せない。
一つだけ言える事は、実質的な首謀者は当時の政界に“居た”と云う事だけだ。 
因みに上祐 史浩が生かされている理由は最早、語るまでも無いだろう。
上祐 史浩“も”オウム真理教を売り飛ばしたのだ。
一方で警視庁の捜査情報が漏洩せず、
計画通りに高純度サリンが使用されていれば、
死者一万人に達す犠牲者が出ていたとも指摘されている。
地下鉄に付随した高純度サリンが
東京中の地下鉄構内に拡散する事に成るのだ。
再びオウム真理教がサリンを使用した動機には、
未解明な部分も多いとされるが、其処にはオウム真理教側が目論んだ
宗教儀式的な意味が有ったと云う証言は有る様だ。
何れにせよ、“少年”に取ってそんな水面下の賭け引きなど、
無意味でしか無かったのだろう。
唯、破滅と再生が近付いている“気配”が感受出来れば、それで良かったのだ。
そして私は先述のEMPERORが醸し出す非日常的な滅約世界と、
オウム心理教が醸し出す“乖離世界”の共鳴を唯、感受し続けていた。
一方でこの頃のトルエン代捻出では、音源の売り飛ばしも厭わなかったのだ。
今では貴重な多くの音源を失っていた。
そして今はその失われた音源を、片っ端から取り戻している所だ。
高がシンナー代如きで、大切な音源を
売り飛ばしたと云う過去に納得が行かないのだ。
値段には拘らず、海外の“ジャパコア・マニア”にも助力して頂いている。
更に後述する不慮の大阪暮らしの際にも、
義父が部屋の荷物を“ギターごと”捨ててしまったのだ。
その中にも無名バンドだが、優れた内容の“デモ”も数え切れない程有った。
後にドラムで加入する事に成る●AGS CONCLUDEで録った
何本かのスタジオ・デモや、ライブ撮りも有ったのだ。
二、三枚の“連れて”行った音源は無事だったが、
●AGS CONCLUDEの音源は、もう“金”では買えない。
今の私が聴く音も、主に40~70年代のフリー、
モダンジャズや戦前ブルースが半数だが、
日本の90年代ハードコア・パンクもその半数は占めている。
“裏”金権社会の腐敗臭に、少年が叫んでいるのかも知れない。
賃貸だが、PILEDRIVERを聴きながら、
センチュリーで高速を飛ばしたのも私が史上初だろう。
だが、内の看板にも90年代初頭まで活動した
元ハードコアパンクスの先輩がいる。
今では看板の本部役付、他所の一門の執行部役付だ。





1995年3月下旬~4月上旬頃。
だが、当時は心身共にトルエンに飢えた餓鬼だった。
ハードコア・パンクなど餌には成らず、トルエンだけが餌だった。
だがそんな私に、“身分”に沿わない
新バンドでの活動機会が訪れ様としていたのだ。
私は“何時の間にか”DOLL誌にメンバー募集を載せていた。
一方で当時の東京ハードコア・パンクはドラムが少なく、
“幻覚活動”に励んでいた私にも複数のバンドからドラムに誘われている。
誘って来た友達を部屋に呼び、バンドの絵図を書いた事も有ったが、
気付くと“シンナー・パーティー”と化して破綻した事も有った。
又、先述のCASSANDRAもドラムが脱退していたが、
この時は私の方から加入を持ち掛けたのか?誘われたのかは記憶が曖昧だ。
因みにCASSANDRAのドラムは、後に“二代目”として
ASSFORTで数年間活動する事に成る。
そしてそんな最中の出来事だった。
札幌旅行を共にした●CUM BLASTの叫びから、ドラムにと誘われたのだ。
特に私が興味を持ったのが、既に決まっていたギターだった。
今では日本のハードコア・パンク好きなら、誰でも知っている人物だが、
当時も“若手ナンバー1”と謳われた
ハードコア・パンクバンドの中心的人物だった。
だが、それが新バンド加入の理由だったかは、“何故か”良く解からない。
そして“何故か”、●AGS CONCLUDEと云う新バンドに加入していたのだ。
少年が囁いた様な気がした。
  ネタは確かに面白かったけどな、
  俺はあんな事する為に東京に来たんじゃ無い。
  それに気付き初めていた頃だった。
  半分は“ノリ”で(新バンドに)入った様な気分も有ったが、
  最後にもう一度、“何か”を試したく成ったんだろうな。
  あの頃は、もうネタでボロボロだった。
  其処から抜け出せるんじゃないかってな。
だが、後にギターの某氏から聴かされたが、
●AGS CONCLUDEと云うのは、“ボロっ切れの日常”と云う意味だったらしい。
そして4月下旬頃に初めて音を合わせている。
だが、私のトルエン漬けドラムは早速、
ギターの某氏とその親友から冷笑を買っている。
バスドラを踏み込む足が、何故か異様に重かったのだ。
ハットも手が攣って“追い付かない”有様だった。
そして音合わせ終了後には、明らかに彼等が私を嘲笑っているのも解かった。
トルエンの言語障害で、碌な会話も儘成らなかった事も有ったのだろう。
ギターの某氏とその親友で有るベースは快活な気風の持ち主で有り、
私は未だに過去を引き摺った、トルエン漬けの“躁鬱気質”でも有った。
他の友達は、そんな私を大目に見れる“人物”として接していた様だが、
快活な彼等には受け入れ難い“人物”だったのかも知れない。
だが、スタジオを重ねる毎に、彼等とも打ち解け得る機会は有った。
経緯は忘れたが、ベースの部屋で彼等と時間を共にした事が有ったのだ。
その場ではギターの某氏から、有る大物バンドの秘話も聴かされている。
その大物バンドの1stシングルアルバムは、
NIGHTMAREを彷彿とさせる、一直線なドラムが印象に残っていた。
だが、直後に出た1stアルバムでは
“不自然”なまでにドラムの叩き方が変わっている。
その理由が“私と同じ”だったと云うのだ。
ギターの某氏とその某大物バンドは友人だった。
そのバンドのドラムは、“ボンド”を止めるか?
“ドラム”を止めるか?と云う所まで行ったらしい。
某氏は一つの教訓を示す事で、
暗に私へトルエンを止める事を促したのだろう。
だが、以前から度々、某氏からトルエンを止める事を促されたが、
私の場合は“喜んで”トルエンを選んだのだろう。
一方で“当時の”●AGS CONCLUDEは、
後期DEATH SIDEが“自ずと”サイケに成った様な音だった。

DEATH SIDE

今なら一線級で通る音だが、当時としては
やはり形骸化の否めない傑物だった。
私も独自に音を作っていたが、
最早それはハードコア・パンクからは遠い地平に有ったのだ。
ハードコア・パンクの速奏ドラムや、
ディストーションギターも必然的に捨て去っていた。
アコースティックを意識した、単弦弾きの曲も珍しく無かった。
“表現”媒体など捨て去り、意識の深淵の有るが儘に“音”を生み出していた。
浅はかな表現媒体など意識しなければ、
ギターに触れる度に、その時々の心像世界が自然と“表現”されるのだ。
今に想えばこの頃に、私は自分の“世界”に到達したのだろう。
そしてこの時に、某氏へその“遠い地平”も語っている。
だが、それはバンドでは無く、自分の“精神”で楽しむ物と云う
部分には大きな疑問が残った。
だが某氏の言葉が、後の私の活動を見事に予見したのは皮肉だった。
少年の残像が囁いた様な気がした。
   俺にはバンドは“社交辞令”、自分の音は“心に閉う”物、
  そんな風に聴こえたけどな。
  バンドやりたけりゃ、自分に“嘘を付け!”ってな。
  だから、嘘はゴメンだから、(後に)“独りで”バンドやる事に成ったんだよな。
そして後の2004年にギター、ベースとMTR、ミキサーを駆使した、
バンドを一人で“本格的”に初めていた。
2008年には“自動”だが、YAMAHA製のシンセサイザーも取り入れていた。
だが、今は“仕込み”が忙しく成って2011年に活動停止と成っている。
私もやる事はやり尽くしたと云うのが本音の部分も有る。
“法的”な意味で、アメリカからの音源リリースは難しく成ったが、
あの頃が私の遅れた“全盛期”だったのだろう。
顧問の“ヤメ検”の指南では、私の立場で迂闊にリリースすれば、
レーベルが“マフィア関連企業”に指定される可能性が有るのだと云う。
日本で云う暴力団関連企業、“ヤクザ会社”にされてしまうと云う意味だ。
一方で●AGS CONCLUDEの某氏達と催された“親睦会”も
見事に破綻に至る結果と成っている。
スタジオの予約を任された私が“記憶喪失”に成ったのだ。
そしてスタジオの予約を“忘れた”事で、彼等から反感を買っていた。
私も●AGS CONCLUDEからは、遠い地平に有ったのかも知れない。





だが、某氏達と“同じバンド”で過ごした時間は、
私に多大なる影響を及ぼした事は確かだ。
某氏のバンドに懸ける熱意は何処までも真摯だった。
彼の親友だったベースは勿論、私や叫びの友達が演奏を間違えれば、
容赦ない叱責を浴びせていた。
他のメンバーの目が“浮いてれば”、
それを見抜いた上で気合を入れる言葉も浴びせていたのだ。
特に私の“記憶障害”は曲の展開を知らされても、
3秒後には忘れさせている始末だった。
そんな私が特に某氏から叱責を買ったのだ。
少年の残像が囁いた様な気がした。
   アイツは何時も本気だった。
  “なあなあ”でバンドやって、
  伸びない(成長しない)奴が許せなかったんだろう。
  少し気に入らない奴だったけどな、
   アイツから色々な影響を受けたのは確かだ。
  どっち道、バンドは時期を見て抜ける事は決まってたんだけどな、、
彼の真摯な気概は、人に依っては萎縮させてしまう姿勢なのかも知れないが、
トルエン漬けのフヌケには丁度良かったのだろう。
そしてこの頃から、少しずつ私の目が醒めて来たのだ。
同時にこの頃に成ると、ブラジルの初期Ratos De Porão、
フィンランドの初期Terveet Kädet、ペルーの初期KAOSなど、
米英外の異国情緒な“トリップ感”を抱かせる音も好んで聴いていた。
特に初期Ratos De Porão、初期OLHO SECOはバンド内でも人気が有った。
皆、“遊び”が過ぎて、頭がボロっ切れだったのだろう。


KAOS:ayacucho centro de opresión (1987)

又、彼等と同じバンドで過ごし初めた頃から、妙な交友関係も生まれている。
某氏達とは何処か険悪ですら有る関係だったが、
その“友達”とは不思議と打ち解けていたのだ。
そんな彼等も、今は某大物ハードコア・パンクバンドとして活動している。
だがその反面で、既に知っていた友達の“目線”は明らかに変わっていた。
当時の東京ハードコア・パンクはその“有名人”と、
どれだけ“コネ”が有るかで、その“格付け”が変わって来る側面が有った。
少年が某氏のバンドに入った事で“格”が上がったのだろう。
少年の残像が囁いた様な気がした。
  ハードコアも所詮、“権力社会”ってヤツだ。
   (当時の友達は)大して知らない奴等だったが、
  (旧知の友達には)俺も“ワザ”と上から見下してな、
  笑いながら“無視”した事も有ったな。
  俺は下から“拝まれて”悦に浸るタチじゃないんだよ。
  下から上を“睨む”のが俺のタチだ。
だが、当時の私がそう成れたのも、某氏の気概に触れたからかも知れない。
同時にこの頃、私は新宿駅東口ロータリーの売人から
有る“仕事”に誘われていた。
北陸地方に分家本部を構えた、
老舗の名門的屋一門(解散)末端からの誘いだった。
仕事は相方と二人でトラックに乗り、京浜、京葉工業地帯の
化学工場から“シンナー”の一斗缶を“クスねる”と云う物だった。
この手口には“何処かで”聴き覚えも有った。
そして深夜に10缶程度を盗み出し、
都内某所で7、8万程度で買い取ってくれる事に成る。
それを相方と半分で分けた額が私の取り分だ。
通常、新宿でシンナーを撒く組は、主に“コネ絡み”からシンナーを“仕入れる”が、
その名門的屋一門の末端はシンナーを盗ませて撒いていたのだ。
当然、ハードコア・パンクの友達には秘密の仕事だった。
名門的屋一門の傘下から“絶対にしゃべるな”と言われていたのだ。
後述するが、その傘下は“ヤク”ザの王道とも言える仕事も“打って”いた。
因みに当時の高円寺ハードコア・パンクスも、
有る“転売商法”で生活費を得ている者が少なく無かっただろう。
私も“平行”する様に良くやったが、
先ず“売れ線”ミュージシャンのヒット・チャートを調べる。
そして売れ線のCDを7、8枚“万引き”して、
1万5000円程度で中古屋に売り飛ばすと云う物だった。
通常は店員の少ない広いレコード屋で、
万引き防止フィルターをカッターで切り、持ち去る手口が多かったが、
私の場合は杉並区、中野区などのコンビニから万引きしていた。
所で高円寺ハードコア・パンクスの複数の友達が、
「俺はヤクザモンを知ってんだ」と豪語していたのを憶えている。
だが地方を問わず、今は止めた方が良いだろう。
“出入り”なら話は別だが、名義使用料として
振り込め詐欺などを強要する組も有るのだ。
今は暴排条例でヤクザ“らしい”組は金庫に苦しみ、
自暴自棄に成っている所も多い。
新宿でも家名を無断で名乗った半グレが、
振り込め詐欺を強要された挙句に摘発された事も有った。
因みに高円寺北には住吉会、西口 茂男総裁の邸宅が有る。
高円寺駅南口付近には首都圏から東北地方、北海道に掛け、
傘下約400人を預かる有力一門、住吉会向後五代目も本部を構えている。
それだけに高円寺では静かにせねば成らない筈だが、
過去に覚醒剤卸で逮捕された同業もいた。
一応、気を付けるに越した事は無いだろう。 
当然の事だが、当時の東京ハードコア・パンクスの全てが
不法行為に手を染めていた訳では無い。
私の周りはそんな友達が殆どだったが、
そんな者達を敬遠して、自身を律して活動する友達も大勢いたのだ。
最初のバンド、●NUCKLEの友達も真面目に働いていた。
何れにせよ、当時の東京ハードコア・パンクは、
“破綻と維持”が競り合っていた様に想える。
覚醒剤やアシッドなど、薬物の蔓延も尋常では無かった。
私も炙りだが、この頃から何度か覚醒剤“にも”触れ初めていた。
友達に対する妙な“対抗意識”も有ったのだろう。
だが炙りとは云え、切れれば20時間程度のダウンは来るのだ。
だが、ダウンなど一切来ない純度99.9パーセントのトルエンは、
私に取っても“ボロい”代物だった。
高円寺の友達も、深刻な禁断症状が
現れている者が少なく無かった様に想う。
私も友達に、ANARCHY&JUNKYだ!と“うつけ言”を叫んだ事も有った。
薬物での逮捕者も急増し、解散や活動停止に陥るバンドも珍しくは無かった。
その観は、私の中で東京ハードコア・パンクの“ハルマゲドン”と化している程だ。
当時の友達数人も「こんな事(バンド)やれんの、“若い内”だけだよな」と溢していた。
だが、そんな彼等も今は40過ぎの“年増”に成り、
複数の某大物ハードコアパンクバンドで活動している。
だが、今年で43に成った私は、業界では未だに“若手”だ。
内の会は会長と役付の先輩以下、皆それ程年は違わないが、
上部の一門執行部の諸先輩は50、60過ぎが殆どだ。
代紋の執行部では稼業歴50年以上、70代の大先輩も珍しくは無い。
代紋頭の御大も70を過ぎている。





1995年9月上旬頃。
私の軌跡を時系列で辿れば、
この間に有った重大な出会いに触れるべきだが、それは最後に触れる。
同時に当時から活動している友達に“妙な”疑念を抱かせぬ為、
時期にも微妙にボカシを入れて有る。
ついに私にも、“追放宣言”が告げられる時が来たのだ。
私はその日、久方振りに20000Vの舞台下に居た。

2000vtttttttt

20000Vでは以前から何処か、
虚弱で寂しげな雰囲気の友達を良く見掛けたのだ。
そして気付くとその友達が知人バンドのドラムから無抵抗に殴られていた。
知人バンドのドラムも“スタミナ”切れで、
拳の乱打が貧弱だった事も有り、私は一分ほど様子を見ていた。
だが、更にスタミナ切れに見えた知人は、
尚も無抵抗な友達を殴り続けていたのだ。
気付くと私は知人の肩を引いて、友達と引き離していた。
その瞬間、背後から何者かが、私にパンチを乱打して来たのだ。
私は反射的にその何者かを横の壁に叩き付けていた。
だが、その反動でパンチを乱打して来た友達のTシャツが、
ベリベリに引き裂かれていたのだ。
友達と私はACCOMPLICEやGESHPENSTの面々が揃う
楽屋に場所を移していた。
その友達は密かに私が好印象を抱いていた某中堅バンドのギターだった。
当然、Tシャツを破られた友達は私に激昂したのは語るまでも無い。
少年の残像が囁いた様な気がした。
  あんな弱々しい奴を何時までも殴ること無いだろう?
  適当に(相手の下腹部などに)前蹴り入れたりとか、
  喧嘩なんかアッっと云う間にケリ付くんだから。
  他の奴等(客の友達)も見て見ぬ振りだ。
  そんなに“権力者”が怖いか!ってな。
  そんで俺も“巻き込まれ”ちゃった訳だ。
  ただ、あの人も友達から貰ったTシャツだって言って、
  涙目で怒ってたから、適当に謝ろうかと想ったが、
  俺は何か悪い事したか?ってんで焦らしたんだな。
その間にACCOMPLICEのドラムも謝る様に促して来たが、
やはり私には易々と謝れない“何か”が有ったのだ。
一方でACCOMPLICEとGESHPENSTのメンバーには、
集団で弱い者苛めばかりすると云う悪評が発っていた。
だが、私の知る限りでは“一人で”絡む姿は見掛けても、
集団で一人を殴ったと云う話は聴いた事は無い。
一方で私が焦らした友達の激昂は、ついに頂点に達していた様だった。
結局、私と友達は“例の裏通り”に場所を移して、
喧嘩で決着を着ける事に成った。
喧嘩に向かう途中では、相手の歩き方や所作から、
その戦術や利き手を見抜くのが鉄則だが、特にヤバそうな感じは無かった。
だが、激昂する友達には喧嘩の鉄則で有る、
戦意を秘めた“冷静さ”など皆無だったのだ。
その喧嘩相手の友達が“手馴れ”だと云う話も聴いた事は無かった。
極真空手の黒帯を持っていると“豪語”していたが、
私の方も義父直伝の空手、ボクシングを取り入れた
実戦格闘技を身に付けていたのだ。
義父も若い頃は実戦空手を習い、東京都内で名を馳せた
手馴れの“喧嘩屋”だったと叔父から聴いている。
私には2年程度の“ブランク”が有ったが、体が“絞られて”いた事も有り、
体の軽さは、かつて感じた事の無い程の“好悪状態”だっただろう。
だが喧嘩場に付くと、横道から知人の友達10人前後が現れたのだ。
そしてその代表格の知人が、喧嘩相手の友達を宥めていた。
だが、今度はその代表格の知人に喧嘩相手が絡み始めたのだ。
それを見た知人数人からも、明らかな殺気を感じた。
そして結局、知人の“派閥”と喧嘩相手の“派閥”に配慮する形で、
私は喧嘩相手に“頭を下げて”、Tシャツを破った事“だけは”謝っている。
他にも大きな理由が有ったが、それは敢えて語る必要は無いだろう。
だが、喧嘩相手だった友達が去り際に、有る一言を叫んだのだ。
少年の残像が囁いた様な気がした。
   お前は“追放だ!”ってな。
だが、その数日後にも20000Vに顔を出しているが、
私の“処遇”へ特に変化は感じなかった。
其処にはGESHPENSTのメンバーも居たのだ。
じかもその約2週間後には原宿歩行者天国でACCOMPLICE、GESHPENST、
●AW KNECKなどと共に●AGS CONCLUDEでドラムも叩いている。
この時のGESHPENSTには、演奏中にIWAJI氏が写真を撮る白人に
殴り掛かると云う険悪さも有った。

  
ACCOMPLICE:天道是か非か

ACCOMPLICEのKIN氏が、舞台中に足を滑らせて
側頭部から大出血すると云う一幕も有った。
そしてそのを舐めつつ、
周囲を睨み付けながら演奏で叫ぶと云う険悪さも有った。
少年の残像が囁いた様な気がした。
   俺もその頃は頭(髪)をブリーチで落としてる位で、
 地味だったから、“忘れられてた”んじゃないのか?
何れにせよ、●AGS CONCLUDEでドラムを叩いてた事で、
追放処分が“免除”された部分も有ったのかも知れない。
ギターの某氏は、喧嘩相手や鉄アレイの葛田氏も属する、
東京ハードコア・パンク“最大派閥”に属していたのだ。
因みに当時の東京ハードコア・パンクは、
その“相談役”にも見えた葛田氏を筆頭とする主流バーニング派、
それに“嫌気”が差していた様にも見えた柔軟な穏和派、
そして新興クラスト派などで“派閥形成”されていたと云うのが私の“見分”だ。
その一方で少し微妙だが、当時はバンド浪人だった元BASTARDの
藤井氏やDEATH SIDEの全メンバー、
ドラム徘徊人とも言えた元LIP CREAMのPILL氏、
そして鉄アレイの小島氏など、
何処の派閥にも属さない、“一匹狼”も大勢いたのだ。
少なくとも本当に実力の有った者には、その様な印象を抱いている。
又、10月上旬頃には横浜F.A.Dの舞台にも昇ったが、
その時は主流バーニング派のGESHPENSTの機材車で、
そのメンバーと共に横浜へ向かっている。
私も何処の派閥にも属さない“見届人”の様な立場だった。
GESHPENSTの機材車では演歌も流れていたが、
見届人の“目”には、如何にも“それらしく”見聞したのを憶えている。
だが、結果的に●AGS CONCLUDEで昇ったこの舞台が、
私のハードコア・パンク人生最後の舞台と成った。





1995年10月上旬頃。
そしてその数日後、“追放者”は意外な所から現れたのだ。
この日、朝早くに何者かが激しく玄関のドアを叩いていた。
身覚えと時間帯から一瞬、桜田門“一家”の連中かと構えたのも憶えている。
だが、ドアを開けた先に立っていたのは、
緊迫感を携えた私の義父とその知人だった。
詳事は避けるが、私と相方の“シンナー盗み”が
強盗罪として立件寸前だったのだ。
その捜査情報が有る人から義父に齎されたのだと云う。
そして直ぐに荷物を纏めて地元に帰る様に促されている。
そしてその3日後、再び義父達が訪れるとその儘、
北関東の某所へと身を隠したのだ。
●AGS CONCLUDEからも事実上脱退した。
こうして私のハードコア・パンク人生は終焉を遂げている。
私を東京ハードコア・パンクから“追放”させたのは、
他成らない私自身の“行い”だった。
だが、身を隠したとは云え、僅か2日後には組に連絡を入れている。
義父や叔父には内緒で、“仕事”も続けていた。
因みに●AGS CONCLUDEは、1997年にHG FACTから発売された“サンプル”、
NO FATEⅢに一曲を残している。
当然、ドラムを叩いているのは別人だ。
音もROCK'N ROLL風なハードコア・パンクに変わり、
私がいた頃の繊細な情感や、その重みが失われていたのが残念だった。
今では一部で話題に成っているそうだが、
私が叩いた無数の練習テープやライブビデオ、テープが残っている筈だ。
PILE DRIVERの様にイントロが“雄弁”な曲が多く、
或る程度の存在感は放つ音だろう。
だが、ドラムに“限っては”余り人に聴かせられる代物では無い。
他に二代目ドラムが叩いたデモも存在する様だ。
だが某氏なら、私が居た頃の音源は否定するだろう。
それだけの理由が有るのだ。
そして結局、この3年後の1998年4月19日に、
私は群馬県内の容疑で群馬県警に逮捕されている。
北陸地方に分家本部を構え、新宿歌舞伎町にも出張っていた、
老舗名門的屋一門の末端も摘発されていた。
その末端は氷屋、覚醒剤卸しだったのだ。
歌舞伎町に厳然たる島割りは存在しない。
存在するのは同じ看板や、その一門内で取り決められた島割りくらいだ。
他所の看板が“密かに”事務所を出しても、“殆ど”問題に成る事は無い。
同時に面会で義父から聴いたが、
氷屋の末端も“絶縁処分”を食らったのだと云う。
私の方は本来なら事後強盗罪が成立した筈だが、
容疑は“何故か”窃盗罪だった。
若いモン風のダボ付いたスウェット姿で、“オモチャ”の道具を向け、
「動いたら撃つぞ!」とやった事も有ったのだ。
私は義父の“挨拶”が功を奏したからだと想っている。
起訴されても裁判の日が来るまで、強盗罪で再逮捕される事も無かった。
結局、6月23日頃に簡易裁判所で執行猶予判決を受けている。
そして簡易裁判所での“ワザとらしい”休憩が終わると、
裁判官が判決を読み上げた。
其処にはこの様な口上が有ったのだ。
  犯行は極めて悪質で有り、且つ“反社会的”で有る。
  しかし親族の●●の事も有り、憂慮する点は有る。
私の仕事は“アナーキー”な仕事だったらしい。
少年の残像が囁いた様な気がした。
  あの頃はもうパンクなどどうでも良かったが、
  モロに反社会的なんて言われると、何だか“嬉しく”成ったんだよな。
  俺に“反抗”してるのは、社会の方だと思ってたが、
  俺にも反社会を“気取ってる”所も有ったんだろうな。
因みに私の生ける世界も御上から“反社会勢力”に認定されている。
米F.B.Iの調査報告に依れば、内の看板も覚醒剤、
人身売買などを資金源とする国際犯罪組織だと云う。
因みに覚醒剤は看板に関わらず、何処も“表向き”は禁止している。
実際は納める物“さえ”納めれば上も黙認するのが実情だが、
覚醒剤で“逮捕される事”は本当に禁止だ。
卸屋や売人など、“下の者”が逮捕されれば確実に破門を食らう。
禁断症状に駆られ、調べで有りもしない事を調書に落とせば、
看板の本部にガサが来る事にも成り兼ねないからだ。
人身売買と云うのは、風俗などへの女の手配を言っているのだろう。
子供を浚って売り飛ばすなど聴いた事も無い。
片方の肺は売り飛ば“させて”も、人体まで売り飛ばす奴など居ない“筈”だ。
最近では借金を返済出来ない者を
派遣屋に“売り飛ばす”高利業も急増している。
そしてその殆どが福島旅行で返済させられる事に成るのだ。
一方でこの前後数年間は、ハードコア・パンクに殆ど触れなく成っていた。
だが、業界入りした頃から再びハードコア・パンクが“恋しく”成ったのか、
今ではその空白期にリリースされた音源も合わせて聴き漁っている。
同時に有る方法で何時、何処でも聴ける状態にもして有るのだ。
僅かな空き時間が有れば、少年を呼び覚ます事も出来る。
忘れ去られた良質の90年代ハードコア・パンクバンドを歴史に残す事も出来る。
80年代だけがハードコア・パンクでは無い。

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